薄明

ごじょうさとる×ふしぐろめぐみ
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2023年9月の投稿91件]2ページ目)

2023年9月9日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

「褒めて!」(R18) こたつえっち
自カプを数字で

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スリーピングビューティー(R18)タイトル関係なく普通の寝落ち
自カプを数字で

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明日はソファを買おう。(R18)プラセボ効果
自カプを数字で

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グッバイオールドブルー
忘れ形見朝露と共に消えていくもの愛を知ってしまった僕たちは呪われてしまったの順でこれが最後

(side伏黒)

元々人をからかうのが好きな人だから、これがその1つなのは分かっていた。深い意味なんてなくて、ちょっとしたおふざけ。分かってはいたのに、つい思ってもないことを言ってしまった。五条は今出張で近くにいない。声しか五条の真意を読み解くものがないから余計に気持ちがひりついて、沈んで、選ばないといけないのに言葉を選べなかった。
「じゃあ、その恵って名前の人と付き合えばいいんじゃないですか」
口にした瞬間から後悔が頭の中を過って、けれど止めることも出来なくて携帯を持つ手に力だけが無意味に込められる。今、この電波の向こうで五条はどんな顔をしているだろうか。ただの悪ふざけに苛立ちを募らせる伏黒に呆れて笑っているのか、興ざめしているのかも分からない。面倒くさい奴だと思われていたらどうしよう、なんてことも過る。
「あんた、思ってることすぐ顔に出るんで気を付けてくださいね。下心丸見えですから」
『ちょっと恵、』
これ以上言ったらただの冗談じゃ済まなくなる。お互いの顔が見えないからこそ、言っていい冗談と悪い冗談がある。分かっていて、最後の最後に余計な一言を添えてしまった。最初に始めたのは五条なのだと言い訳すらして。
「…恵ちゃんの方がいいでしょう、俺より」
五条がなにか言いたそうに口を開いた気配がしたけれど、それを聞く前に携帯を耳から離して通話を終了させる。画面に表示された通話時間はたったの10分。たった10分であっさりと嬉しかった気持ちはどこかに行って、お互いの間に後味の悪さだけを残してしまった。
深い深いため息を吐き出して、折り返しの返ってこない携帯をベッドの端に放り投げると、それはシーツの上を滑って床に落ちた。それを拾う気分にもならなくて、布団の中で丸くなる。アラームはちゃんとセットしているし、基本的に目覚ましの少し前には目を覚ますから大丈夫だろう。
五条が出張から帰ってくるのは明後日だ。三日ほど前に出張へと出かけて行った際に今回は遠方だから早めに切り上げてくるのは難しいかも、と言っていたから予定より遅くなることはあっても早く帰ってくることはないだろう。今日伏黒にたまたま話しただけで、本当は初日から五条は自分に気があるという補助監督の「恵ちゃん」とやらと一緒に仲良く過ごしていたに違いない。五条がやたらモテるのはよく知っている。黙っていれば誰もが振り返るような容姿をしていることもよく理解している。けれどそれに今更どうこう思ったことなんてなかったのに。
「…かっこわりぃ」
自分と同じ名前をした顔も知らない女性に妬いて、五条がその同じ名前をした女性に冗談でも伏黒を重ねたことに苛立って、あまり気分の良くない言葉を投げつけた。結局五条が何を言おうとしたのかも聞かずに会話を切ってしまったから、帰ってきた時に一体どう顔を合わせたらいいのか。いや、合わせてくれるかも分かりやしない。情けなくて、かっこ悪くて、でもやっぱり気分は良くなくて。そんな後悔と苛立ちの中で伏黒は目を閉じた。

___

朝になって床に落ちた携帯を拾ってみても折り返しは来ていなかった。特にメッセージの一つも来ていなくて、昨夜の後悔を思い出すと同時にちょっとの苛立ちも湧き上がる。弁解の一言すらないのかと。刺々しい物言いをした自覚はある。五条からしても気分のいい話じゃなかったろう。今ここで伏黒から言い過ぎたと連絡の一つでも入れれば、きっと五条も昨夜のことを謝ってくれる。分かってはいるが伏黒は何もせずに携帯を閉じた。
五条はいなくても授業は当たり前にある。身支度をしながら煮え切らない思いが渦巻いて意味もなく動作が荒っぽくなる。そのせいか、顔を洗おうとして蛇口を捻れば加減を間違えたのか勢いよく水が吹き出して寝巻を盛大に濡らすし、歯を磨こうと思えば歯磨き粉が切れていて買い置きもないし、珈琲を飲もうとすれば粉をぶちまけるしで、やること全てが上手くいかなくてそれが余計に伏黒の苛立ちを募らせた。焦げてしまった食パンを齧りながら昨日から何度吐き出したか分からない溜息をまた吐き出す。
トラブルがなかった方が少ないが、一先ず朝の身支度を整えて授業の為に教室へと向かおうとすれば、玄関先で敷居に躓いて散々だった。
「伏黒おはよー…てすごい顔してんね」
「してない」
「してるって。超イライラしてんじゃん」
丁度伏黒と同じタイミングで部屋から出てきた虎杖は顔を見るなりたじろいだ。虎杖の言う通り今の伏黒はとても人に見せられる顔をしていない自覚がある。たぶん目付きの悪さだけでちょっとした呪いの一つくらいは祓える気がするくらいには。
「朝から何してもうまくいかないんだよ。今も敷居に躓いた」
「それ見た」
そのまま虎杖と連れ立って教室へと向かう。生徒寮と教室のある棟を繋ぐ渡り廊下に差し掛かったところで、同じように教室へ向かう釘崎とも鉢合わせた。その釘崎も伏黒の顔を見て一瞬たじろぐ。
「何こいつ、すんごい顔してんだけど」
「朝から散々なんだって。水零したり、パン焦がしたり」
「言わなくていい」
虎杖に話した朝の内容を今度はそのまま釘崎へと回されて、こんな事なら最初から虎杖に話すんじゃなかったと思いながら三人で教室へと向かった。


それから幸いなことに午前の授業では五条のことを考える暇がなかったからか、座学も実技も大きなやらかしもなく無事に終えて、このまま何事もなく午後も終えられるのではないかと思っていた。がしかし、これから昼食を摂りに食堂へ向かおうとした伏黒の肩を釘崎が掴んだ。教室のドアの前で同じく食堂へ向かおうとしていた虎杖が外に出れなくなって少し困った顔をしている。
わざわざ引き留められて、嫌な予感がしないわけがない。
「虎杖が通れないだろ」
「これから学食行くんでしょ?ちょっと話聞かせなさいよ」
「…なんのだよ」
「あんたの彼氏の話よ。どうせなんかあったんでしょ。面白そうだから聞かせろって言ってんの」
釘崎の言葉に心臓がきゅ、と縮まった気がした。彼氏も何も、そもそも恋人がいるなんて一言も言っていないのに言い当てられたからだ。釘崎の後ろで様子を見守っていた虎杖も「あ~、だから伏黒あんなに機嫌悪かったんだ」なんて言って納得しているが、当然虎杖にも言っていない。さっと青ざめた伏黒に釘崎は呆れたように言った。
「あんたが五条先生と付き合ってんのなんてみんな知ってるわよ」
相手があの五条だから完璧に隠せるとも思ってはいなかったが、校内の人目に付くような場所で恋人らしいことをした覚えもない。五条と付き合っているのかと聞かれれば一応答えはするが、だからと言って自分から公言したこともない。気付いている人はもしかしたらいるかもしれないとは思っていたが、みんな、とは。
言葉を失う伏黒の肩を掴んだまま、釘崎に食堂へと連れて行かれる。何故か虎杖も一緒についてきていた。釘崎と一緒に話を聞くつもりだ。
そうしてやってきた食堂では今日の日替わり定食は生姜焼き定食。嫌いじゃないメニューの筈だがこれから釘崎に尋問を受けるのかと思うと悲しいことにテンションが上がらなかった。まさかこうも当たり前のように五条との関係を知られていて、しかも不機嫌の理由の目星まで付けられているとは。そちらの方が頭の中を占めていてとても生姜焼きに喜んでいる場合ではなかったのもある。
伏黒が逃げない為か、両脇を釘崎と虎杖に挟まれながら今日の生姜焼きを見つめてやっぱりまた溜息を吐き出した。
「話聞いてやるから。ほら、食べな。あたしの奢りよ」
「聞いてほしいなんて言ってないし、奢ってないだろ…」
「まあまあ。いっぱい食べな?」
「お前ら…」
釘崎はハッシュドビーフ、虎杖は同じ生姜焼き定食を大盛りにして食べていた。それにつられるように伏黒も生姜焼きを食べ進めながら、気になっていたことを聞いてみることにした。少しでも話の矛先をずらしたい、というのが本音ではあるが。
「まず、いつから気付いてたんだ」
「虎杖との初任務終わったあと。あんたと先生が一緒に子供送り届けてた時」
「最初は仲良いんだなーて思ってたけどピンと来たのは釘崎と一緒」
「……ほぼ最初からじゃねーか…」
まさか出会った頃から察せられていたとは。知らぬは本人ばかりだ。五条との関係を恥ずかしいものだとは思っていないが、しょっちゅう顔を合わせる同級生に知らぬ間に知られていたとなればやはり多少は恥ずかしいというもの。啜った味噌汁の味なんてもうよく分かっていない。
「恥ずかしいならもう少し隠す努力しなさいよ。鈍いこいつから見ても分かるんだから相当よ」
「俺に失礼じゃね?」
「で、その彼氏とどんな痴話喧嘩したのかさっさと吐きな」
虎杖のことなんてまるで無視して釘崎が肩を寄せてくる。話すまでこの食堂から出さないぞという強い意志を感じた。下手な誤魔化しなんてしようものなら放課後にも捕まりそうだった。女子は往々にして色恋の話が好きなものなのだ。
「喧嘩、というか…ちょっと言い過ぎたというか、」
「はっきり言え」
「…出張先にいる俺と同じ名前の女の人の話ばっかするから、ムカついて…」
改めて昨夜のことを口にすれば、五条が上機嫌にその恵ちゃんのことを話してきた時の事が思い出されて2人に挟まれて忘れかけていた苛立ちが戻ってくる。そして。
「ムカついて?」
虎杖が続きを促す。
「じゃあその恵ちゃんと宜しくしてろって言って電話切った」
そして、苛立ちのままに五条が良くは思わないだろう言葉を敢えて選んで口にした。何か言おうとしたのを聞かずにその日は伏黒から通話を切ってしまったから、あの時五条がどう思ったのかも、今どう思っているのかも分からない。お互い何か言い訳のメッセージの一つを送るでもなく、未だに履歴はあの喧嘩にも口論にも満たない伏黒のとげとげしい言葉で止まっている。
大まかな顛末を話せば、あれは先にけしかけた五条が悪いのだというひりついた気持ちと、あの程度の冗談も受け流せずにムキになった自分が面倒くさい人間そのもので情けなくなる気持ちと申し訳なさがない交ぜになる。伏黒から連絡をすればちゃんと謝ってくれるのを分かって何もしないのも、ちょっとした意地でしかない。子供だ。
こんな情けない話を無理矢理とはいえさせられて、居たたまれなさを感じながら生姜焼きを一枚頬張った。やっぱり味は分からない。
「今更そこでイラつく?」
カレーより名前が洒落てるから、という理由でハッシュドビーフを食べていた釘崎は水の入ったコップを一気に呷るとそう言った。空になったコップが小気味いい音を立ててテーブルに置かれる。
「…?」
「今更そこでへそ曲げるかってことよ。どうせ長い付き合いでそんな嫌がらせクソほど受けてんでしょうが」
「嫌がらせって」
「………ん?何か勘違いしてないか?」
「なにを」
「俺と先生の関係は思ってるほど長くないぞ」
釘崎はおそらく伏黒と五条の関係について少し勘違いをしている。そりゃあ出会ってからの付き合いは長い。人生の半分は五条がいる。しかし所謂恋人なんて名前の関係になってからはそう長くはない。流石に付き合うまでの詳細な経緯まで話す気はないが、ちゃんと付き合うことになったのは高専に入る前、中学三年の終わり頃。実はまだ一年も経っていないのだ。
伏黒の言葉に黙々と食べ進めていた虎杖も、眉間に皺を寄せていた釘崎も動きを止めた。左右から視線が突き刺さる。虎杖も釘崎同様の勘違いをしていたらしい。
「熟年夫婦のそれかと思ってた。先生がアレ取ってって言ったらちゃんと醤油取ってたし」
「……ふぅん…」
釘崎がにやりと笑ったのを見てこれは適当に話を合わせておけばよかったのかと今になって気付くが、既に手遅れだった。虎杖がついでに買っていたプリンを何故か釘崎が指さして言う。
「そのプリンやるから説明」
「俺のなんだけど?」
「いや話すつもりは…」
「ここまで来たら全部ゲロっちゃいなさいよ。減るもんでもないでしょ」
付き合ってると知られるだけならまだしも、馴れ初めまで語るとなると流石に精神が削られる。減るものはある。朴念仁とからかわれる伏黒にだって人並みに羞恥心はあるのだ。
けれど女子の押しの強さに勝てる訳もなく、さっさと定食を食べ切って立ち去ろうとしたがその頑張りは無駄となった。何かと悪ノリが好きな2年生の面々にも聞いてみようかと脅されては仕方ない。あの掴みどころがないどころか特定の相手を作るイメージすらないであろう、あの飄々とした五条の浮いた話となれば食いつきもいいだろう。何よりも、伏黒と五条が紆余曲折の末付き合うに至った日、直前に真希と少し話をしたのだ。そこから話がどう広がるか分かったものではない。
「…話す、話すから先輩たちには振るな」


「つまりガキの頃から先生が好きで、先生はそんなあんたの為に恋人ごっこをしてくれてたと思ってたけど、実は先生も本当にあんたのことがずっと好きだったと判明したのがつい最近ってこと?」
「復唱しないでいい」
「しかも何がなんだか分からないけど先生は先生でそのうちあんたに愛想尽かされるとずっと思ってたと」
「声に出さなくていい」
やむなく話したあらましを誰に説明しているのか丁寧に繰り返され、穴があったら入りたいを身をもって体感していた。一般的な恋愛とやらがどんなものなのかもリアルな恋愛とやらがどんなものなのかも分からないが、少なくとも伏黒と五条のそれはそのどちらからも外れたものなのは分かる。それを改めて振り返って人に話すとなれば当然恥ずかしい。しっかり精神はすり減っていた。
「……伏黒って映画みたいな大恋愛してたんだな」
「やめろ」
「あんたら見かけによらず随分一途なのね」
「やめてくれ」
慰めているのか追い詰めているのか、ともすれば火が出るのではないかと言うほど熱を持つ頬を持て余しながら虎杖に差し出されたプリンを受け取る。小っ恥ずかしい話をしたのだ、いっそ甘いものでも食べたい気分だった。
スーパーで特売品になっているようなプリンは卵の味なんてしなくて、人工的な甘さだけで固められていた。特別美味しいわけでもない、けれど今の伏黒には丁度いい甘さだ。
「ツッコミたいところは山ほどあるけど、そもそも好きでもなかったら小学生と付き合うわけなくない?遊びでもなんでも捕まるのはあっちじゃない」
「付き合うつっても手を繋ぐくらいでマジで何もしてなかったし、本当に形だけだったんだよ」
「すげぇ大事にされてんじゃん」
「てっきりもう手を出されてるのかと思ってた」
「…そういう人じゃねぇ」
その言葉に2人が笑顔になっているのを見てまたしても後悔した。口を開けば開くほど五条が好きなことを教えているようではないか。こんな惚気みたいな話、するつもりじゃなかったのに。
今日は朝から散々だ。寝巻はびしょ濡れになるし、歯磨き粉のストックもない、インスタント珈琲の粉は零すし食パンも焦がした。何もかもが上手くいかなくて、口を開けば失言ばかり。適当に上手く話を合わせてしまえばよかったのに、馬鹿正直に話してしまうから伏黒ばかりが恥ずかしい思いをしている。全部昨夜の会話から、五条からだ。
とは思うものの、二人に挟まれて色々話してしまったら昨夜の怒りは小さくなっていた。怒ることにも疲れてしまったのかもしれない。怒るにも体力はいるのだ。
「明日帰ってくるんでしょ?いい機会じゃないガツンと言ってやりな」
「ガツンって何を」
「その人より俺を見て!的な感じ?」
「そんな女と俺のどっちが大事なんだよこら、的な感じよ」
「言えるわけないだろ」
「言える言えないじゃなくて言うのよ。また同じことされたいの?」
「…されたくは、ねぇけど…」
五条とちゃんと付き合うようになってから、こんな言い争いなんてしたことがない。それまでは五条が上手いこと言葉を選んでくれていたのだろう。いつ嫌われても自分が傷つかないように、だとか終わりばっかり考えて自分本位だった、だとか言っておきながらちゃんと伏黒のことを考えてくれていたのだ。伏黒がこれ以上五条のことを好きにならないように、五条が伏黒をこれ以上好きにならないように、距離のある言葉を選んだのだったとしても。気付いてしまえばむず痒くて仕方ない。そういうところが更に伏黒の中の好意を増していることに、まだ気付いていないのだろうか。とはいえ、2人の言うように昨夜の冗談については笑って「もういいですよ」で済ますには些か大きな出来事だ。少しくらいは強く言ったって、五条に仕返しをしたってバチは当たらないのかもしれない。だって伏黒はもう、あの大納言しるこを五条に手渡した日から愛想を尽かしても尽かされても、五条のことを手放さないと決めたのだ。腹を括っている。
はあ、と溜息を吐き出す。
「お前らに尋問受けてたら意地張ってんのも疲れた。とりあえず、明日ちゃんと話を、する……」
「伏黒?」
昼休みももうすぐ終わる時間になってようやく気が付く。3時間くらい前にメッセージが来ていたことに。
差出人は今さっきまで会話の中心にいた五条だった。
「…先生から連絡きた」
「見せなさいよ!」
「やめっ……!」
「おっと」
伏黒が零した言葉に気付くが早いか、横から釘崎の手が伸びてくる。それをすんでのところで躱す、がしかし反対側にいる虎杖も今やすっかり釘崎側の人間だった。釘崎から逃げるために反対側、虎杖のいる方に引いた手をそのまま掴まれる。伏黒よりずっと筋肉も力もある虎杖に掴まれてしまえば当然振り払える訳もなく。
「噂をすればなんとやらってやつじゃん!」
五条からのメッセージはシンプルに、「謝りたいから今夜電話する」だった。

____

(side五条)

待って恵、そう言おうとしたが届く前に通話を切られて五条は青ざめた。さーっと血の気が引いていくのが分かる。好きな子にちょっと意地悪をしたい、そんな悪ノリで存在しない伏黒と同じ名前の補助監督の話を喜々としてしてしまったのだ。実際は五条についているのは男性だし、なんなら伏黒もよく知っている伊地知だ。五条に好意を寄せている恵ちゃんなんてどこにもいない。
「やっちゃった………」
通話の切られたスマートフォンを見れば通話時間は10分。たったの10分で伏黒に心にもないことを言わせてしまった。
けれど今すぐ折り返しの連絡をすれば間に合うことは分かっている。質の悪い冗談を言ってごめん、恵ちゃんなんていない、五条に好意を寄せている女の人なんてどこにもいない、と。しかし血の気の引いた指先でさっきまで伏黒と通話していたアプリを開いたところで気付いてしまう。伏黒が五条に「恵ちゃんと付き合えばいいじゃないか」と言った時、本心ではないのは明らかではあったが苦しかろうが苛立ちに任せての言葉だろうが五条が他の人間と付き合うことを頭に巡らせたのかと。どうやらまだ伏黒から手放される用意を、見放されてもいい心構えをしていたらしい。「ねぇ恵、自分の父親がまだ生きてるって、そう思ってるんでしょ。実はね、」なんて言えやしなくて心苦しさと不安ばかりが募る。こんなことなら伏黒のことをこんなに好きになる前にさっさと無理矢理伝えてしまえばよかったとすら思う。そうしたら本当のことを知った時に伏黒がどんな顔をするか、考えなくて済んだのに。
深い溜息を吐き出す。
自分からはもう手放せないけれど、いつか伏黒が五条のことを軽蔑したって呆れ果てたって、最初からそうなると達観していれば傷は浅い。そう、まだ思い込んでいる。
伏黒の涙ながらの告白を聞いてまだそんなことを思っているのか。あまりにも意気地がなくて、そして最低だ。これは無意識の試し行為だ。
止まった指を再び動かす。ちゃんと酷い冗談を言ったと謝らないといけない。
「はぁ!?」
通話をタップするところで画面が切り替わる。着信画面だけれど、伏黒ではない。もう日付も変わろうかという時間だというのに電話をかけてきたのは伊地知だった。


間が悪い時はとことん悪いもので、真夜中に伊地知からの呼び出しがあってからというもの何もかもが散々だった。
あんな時間にある呼び出しなんて当然任務に関するものに決まっている。聞けば今日五条が赴いた現場からそう遠くない場所に呪霊が多発したのだという。運悪く近くに使えそうな術師はおらず、しかも等級は特別高くはない代わりに数が集まっていた。他の術師が到着するまで放置するには些か危険だという事で、たまたま近くにいた五条が呼び出されたのだ。
現着してみれば、発生源と思われる街の片隅にある朽ちた神社には夥しい数の呪霊がひしめいていた。長い事手入れもされずに放置された神社に対する恐怖の念と、そこに祀られていた呪物を求める呪いとが合わさってこのような事態になってしまったのだろう。さっさと辺りの呪いを祓って呪物を補助監督に預けて、そうすれば後始末は遅れてやってくる術師でも十分だ。そう、思っていたのだけど。
その任務の途中でゲリラ豪雨に襲われ、その豪雨の影響で他の術師は到着が遅れ、五条一人で全てを片付けた頃にやっと雨は止んだ。伊地知に原因となった呪物を渡した頃には深夜の3時。思ったより時間がかかってしまった上にもう伏黒に連絡するには遅すぎる時間。用意されたホテルに帰ってから一言メッセージだけでも送ろうと思ったものの、伏黒と話したきり充電も忘れていた携帯はすっかり元気をなくし真っ暗になっていた。シャワーを浴びている間に充電して寝る前にメッセージを送ろうと思っていたが、今度は急に充電コードが断線して使い物にならなくなった。まるで伏黒に連絡しようとする五条を邪魔するかのように何もかもが都合が悪く進んでいき、漸く一言を送れたのは連絡のつかない五条を迎えにホテルの部屋までやってきた伊地知から充電コードを借りることが出来た午後10時過ぎだった。
伏黒に酷いことをした報いなのか、くだらない試し行為なんて無意識にやってしまった罰なのか、電話が切れた瞬間から何も上手くいかない。送ったメッセージに既読が付いたのも送ってから3時間程経った午後1時頃。向こうでは昼休みが終わる頃だった。その返事はシンプルに「分かりました」だけだった。

___

電話をすると言ったのは自分だが、いざその時が迫ってくるといやに緊張した。五条に投げられた任務を終えた頃にはすっかり日は落ちていて、伏黒の方は夕食の時間も終わって風呂も終わっていようかという時間。その間お互い「連絡する」「分かりました」以上のやり取りをすることはなかった。
はあ、と一度深呼吸をしてから握りしめた携帯の画面を操作していく。ちゃんとコンビニで充電コードも買って、しっかりMAXまで充電してあるからどちらかが切らない限り通話が途切れることはない。更新されていないトーク画面を横目に通話をタップして、コール音が鳴ること数度。
ぷつ、と音が途切れるやいなや直ぐに口を開いた。
「昨日はごめん!」
『昨日はすいませんでした』
コール音が途切れた瞬間、口を開いたのは二人同時だった。声が重なってしまったが伏黒がなんと言ったのかはちゃんと聞き取れた。それは伏黒も同じだったようで、聞き返されることもなく言葉の意味を噛み締める様に揃って僅かな間だけ無言になる。
やがて口を開いたのは伏黒だった。
『あの、昨日はすいませんでした。大人げなかったです』
「…いや、こっちこそ、ごめん」
恵ちゃんなんていない、好意なんて寄せられてない、全部嘘で、全部意気地がない自分が悪い。言いたいことは今日ずっと考えていて山ほどあった筈なのに、いざ言おうとすると簡単には出てこない。情けないだとか、かっこ悪いだとか、そんなものではなくて伏黒を傷つけないで済む言い回しが上手く出てこないのだ。前は、ちゃんと付き合う前はいくらだってそんな言い回しは出てきたのに、いざとなったら出てこない。伏黒のことを手放したくなくて、愛想を尽かされたくなくて、そんな五条の為の相応しい言葉が探しても探しても引き出しのどこにも見つからない。ただ耳障りのいい表面だけの言葉じゃ意味なんてないのに。
『浮気するなら、次はちゃんと内緒にしてくださいね。嫌がらせでも知りたくないので』
言葉を探してまごついてる間に伏黒が発した言葉に、ぎゅうと心臓が嫌な音を立てた。そう思われたって仕方ないことをしたのは自分だ。全部自業自得だけれど、伏黒にこんなことを言わせた自分が恥ずかしくなる。恥ずかしくて、かっこ悪い。
「っ、浮気じゃない!」
『あんなに楽しそうに話してたのに?』
「それは…、」
そんなに信用ない?とは口に出来なかった。信用なんて最初からあったもんじゃない。元々終わりありきで付き合っていた、そのツケがまだ残っているのだ。言葉を尽くして、もう間違えないようにしないといけない。付き合いは長いくせに、今更やっと拙くこの関係は形になって、そしてまだまだ未熟で未完成で、不誠実だ。
言葉を詰まらせた五条に、伏黒が更に言葉を重ねる。その声はどこか笑みを含んでいた。
『…五条さんが俺の事嫌いになっても愛想尽かしても、逆に俺が五条さんを嫌いになっても愛想尽かしても、結局好きなことに変わりはないので安心して浮気でもなんでもしてください』
ただし今回みたいに口にするのはNGですよ、とも付け足して。
伏黒がこんなに五条のことを好いている。五条が口にするより先にこんな事を言われてしまったら、いつまでも言葉を探してもたついている場合じゃない。
何だか気が抜けてしまって床にへたり込む。深く息を吐き出して肺の中身を全部吐き出して空にしてから、新しい酸素を吸って選ぶのをやめた言葉たちで伝えていく。
「浮気じゃない…恵ちゃんなんていないし、そもそもついてたのは伊地知だよ」
『しょうもない嘘ですね』
「嘘じゃない」
『じゃあなんで』
「……恵に、愛想尽かされるかなって」
五条の言葉に息を飲んで、それから呆れたように溜息みたいな笑いを零した。
あそこで伏黒が「もういいです」と言って五条のことを捨てたら、きっと死ぬほど後悔する。傷が浅いなんてそんなわけない。どうしてこんな事をしたんだろうと悔やみに悔やんで、けれどまた捕まえに行く意気地もなく手元を離れた伏黒の背中ばかりを見つめることになるに違いない。分かっていて分かってないふりをした愚か者だ。 
『大人になったら俺が五条さんのこと嫌いになる、でしたっけ?…そん馬鹿みたいな話、まだ信じるほど俺って信用ありませんか』
「そんなことない」
『あるでしょう。あるから、昨日みたいなことが言える』
でも、と伏黒が続けた。
携帯を持つ手が汗で滑りそうになる。言葉は優しくないのに、もうそこに昨夜みたいなとげとげしさはない。怒っていないのに怒っているふりをしている。電話の向こうの声がどこか楽しそうなのは五条に仕返ししているからだ。俺はこんなに好きなのに、よくも、そう言っている。
『いいですよ。それでも俺は五条さんのことが好きだから』
「……今日の恵、いじわる」
『自業自得ってやつですよ』
明日午前中で終わるから会いに行っていいか、そう聞けばわざわざ迷うふりまでしてから「差し入れは歯磨き粉でお願いします。なんでもいいので」と返された。


___


昨夜、五条との電話が終わったあと1度部屋を出れば、伏黒の通話の結果を聞こうと廊下で虎杖と釘崎が待っていた。腕組みをしながら「どうよ」と言った釘崎に「いつになく腰が低かった」と返せば、「一応反省はしてるのね」と返された。虎杖も「なんか丸く収まりそうでよかった!」と伏黒より上機嫌だった。会話の詳細は話してないのにそう言われるのだから、きっと顔に出ていたのだろう。明日は任務も学業もなく、部屋にいる以外特に予定もない。五条が買ってくる歯磨き粉を受け取って洗面台の引き出しに入れてから話を聞くくらいだ。たぶん、きっと、虎杖が言うように丸く収まる。2人に五条との関係について話すつもりはなかったのに、成り行きとはいえ話すどころか背中まで押されてしまった。「今日は色々悪かった。ありがとう」と言えば2人は「また今度話を聞かせろ」と返すのだった。
そんなこともあって今朝は気持ちがすっきりしていたからか寝巻きをびしょ濡れにすることもなかったし、歯磨き粉も昨日買った1本があるし、インスタント珈琲を零すこともなくパンも焦がさなかった。部屋を出た時に敷居で躓くこともない。悪くない朝の始まりだった。
午前中に終わるとは言っても具体的にいつやってくるのか分からなくて、意味もなく部屋の中を歩き回っては枕やベッドシーツの皺を伸ばしたり、冷蔵庫の中身を整理したりした。五条も反省していて、伏黒ももう怒ってない。それでもこの間みたいな会話は初めての事だったからまだ少しだけ緊張が残っていた。本を読もうにも何も頭に入ってこなくて、同じページの同じ行を何度も目で追いかけていた頃だった。
「めぐみ、いる?」
控えめなノックの音と共に五条の声がした。栞を挟むのも忘れて思わず本を閉じてしまって、けれどそれにも気付かずに玄関へと向かう。やっぱりまだ緊張していて、心臓が少しだけ煩かった。
勝手に入ってくると思って鍵の掛けていなかった玄関扉を開けば、任務が終わってすぐ来たのだろう五条が私服に着替えもしないで立っていた。目隠しだけは一応首に下ろしていたけれど。
「…お、お久しぶりです」
久しぶりと言うほど久しぶりでもないのに選ぶ言葉を間違えてしまったが、申し訳なさそうな顔をした五条は気付いていないのか「久しぶり…これ」と言ってからドラッグストアのビニール袋と紙箱を差し出した。
「これは?」
「帰りに買ってきた。本当は寄り道せずに来たかったんだけど…手土産、ないのもなって」
「別に良かったのに…せん、」
先生、と言いかけてから今日は隣に誰もいないことを思い出した。伏黒に気を使ってか、後日話を聞き出すための貸しを作る為か、その両方か、虎杖は朝から出掛けていた。釘崎も出掛けると言っていたから、もしかしたら荷物持ちにでも駆り出されているのかもしれない。
「…五条さん、玄関だとあれなので、どうぞ」
1度先生と言いかけたのを言い直してから部屋へと招き入れる。背の高い五条が少し体を丸めて玄関をくぐるのを見るのが、実は意外と好きだった。
適当に座ってるように伝えてから、台所で飲み物を用意するついでに受け取った紙箱を開ける。中には一つだけ、コーヒーゼリーが入っていた。通りで渡された箱が小さかったわけだ。いつもは必ず五条自身の分も買ってくるのに。一つしかないコーヒーゼリーを取り出してスプーンを2つ添えて、水切りかごからグラスを一つ手に取る。冷蔵庫の中にあるアイスコーヒーを注いでから五条の為に用意してあるシロップを少し多めに注ぐ。アイスコーヒーにはシロップだと知ったのも、五条の為にコーヒーを用意するようになってからだった。
「…僕さ、」
少し離れたところから伏黒の背中に声がかかる。振り返れば、ベッド脇に腰掛けた五条がこちらを見ていた。
「1人は寂しくて」
「…へぇ」
「だから最初に恵に声を掛けた。きっとこの子は僕と並び立てるからって」
「この術式なら、って?」
「そう。…ただ同じくらい強くなってほしかっただけで、それだけでよかったのに」
そこで五条が一度言葉を詰まらせる。続きを待ちながら用意したグラスとコーヒーゼリーを持って五条の元へ向かう。2人で座れるテーブルと椅子でもあればよかったのだけど、元々1人用の部屋にそんなものはなかった。
コーヒーを受け取った五条がようやっと、言葉を続ける。隣に腰掛けた伏黒を見る目は少しだけ涙を湛えていた。
「今はもういなくなるのが怖すぎて、いなくなった時の心構えばかりしてる」
「懲りずに?」
そう返せば五条の手のひらが頬に伸びる。かさついた大きい手のひらが優しく頬を包んだ。困ったように、力なく笑う。
口を挟んではいけない。何か余計なことを言ってしまったら、きっと五条が必死に探して選んでいる言葉はどこかへ行ってしまう。そんな気がして、伏黒の手の中でコーヒーゼリーの入ったカップがゆっくりとぬるくなっていく。
五条の手のひらの温度が心地よくて、何も言わない代わりにそっと頬を寄せた。こうやって五条から五条の意思で触れてくれるのだって、随分と時間がかかった。変に頭ばかり回して2人揃って遠回りばかりした。深入りしたら離れられなくなるなんて、ただの言い訳だ。とっくの昔に離れられないところに来ていたのに。
「…恵の顔を見てると、いつも言わなきゃって思うんだよ。どんどん似てくるから、ここに連れてきたことも、したことも、忘れるなって言われてるみたいだ」
誰に、何を、とは聞けなかった。けれどこんな、言うのが苦しいみたいな、どうしようもなく怖いなんて顔をして、そこまでして伝えられることに何の意味があるのだろう。一生懸命に頭を回した結果がその言いたくなさそうな話なら、聞きたくはなかった。
伏黒が聞きたいのはそんな話じゃなくて、もう伏黒が離れる想像をしない、そういう話だった。
「あのね、僕は恵の」
「五条さん」
頬に重ねられていた手に自分の手のひらを重ねる。いつの間にか五条の手のひらからは血の気が失せてひんやりしていた。そうじゃない、そうじゃないのだ。
「言いたくないなら言わなくていいです。五条さんが隠し持ってるそれが不安の原因なんだと思いますけど、こんなに冷たい手をされてまで聞きたいことじゃない」
ぎゅうと握り締めれば、緊張と怯えとで揺れていた瞳が丸く開かれる。必死に組み立てていたのであろう言葉が崩れ去って、代わりに子供みたいに唇をきゅうと噛み締めた。薄く張られていた涙はもう零れ落ちそうなくらいになっていた。弱々しくて、けれどもがいていた。
「甘やかさないでよ」
「だって言ったら五条さんはまた逃げたくなるでしょう」
「…ならない」
「嘘」
ぱちりと瞬きをした拍子にとうとう涙が五条の手にしているグラスへと落ちた。
「もうちょっと勇気が出てきたら、またリベンジしてください。じゃないとまた同じようなことをするでしょう。…恵ちゃんみたいに」
わざわざ恵ちゃんの名前を出してやれば、五条が肩からやっと力を抜いた。
「一生そんな勇気出てこなかったらどうしよう」
そう言って笑う五条はやっぱりまだ頼りなかったけれど。
「じゃあ一生秘密でいいですよ」
むしろ秘密でいた方が五条はずっと伏黒を想って頭を悩ますんじゃないか、とは言わなかった。
「ちなみに心の準備してた成果はあったんですか?」
そう聞けば、五条は涙を落としながら「二度とやんない。やらなきゃよかった。深夜に呼び出されるもん」と答えた。


1口コーヒーを口にして、「いつもより甘い!」と五条は瞳を輝かせた。普段五条に出す時よりシロップを多めにしたおかげか、散々涙が落ちていったわりにはしょっぱくはないようだった。五条が買ってきてくれたコーヒーゼリーは高いだけあって、上に乗っているのがただのコーヒーミルクではなく甘さが控えめなクリーム、更に甘さを調整出来るようにとシロップまで付けられていた。そのシロップをかけなければ甘いものが得意ではない伏黒でも食べやすい。けれどそれを伏黒1人で食べきってしまうのは勿体なくて、半分ほど食べたところで付属のシロップを全てかける。それを持ってきたもうひとつのスプーンで掬い上げた。
「これでお揃いですね」
「なにが?」
伏黒が差し出したスプーンに素直に口を開けるのが子供みたいで少し笑えてしまう。口角が持ち上がっているのを自覚しながら五条の口元にスプーンを運べば、やっぱりその都度素直に食べるのだから堪らない。
「俺も五条さんも泣いたじゃないですか」 
その言葉に五条が瞳を丸くする。
「…僕たちもしかしてださい?」
「ださいですね」
眉を下げて柔らかく笑う顔に、やっぱり伏黒の方が先に惚れ直してしまうのだ。続けてシロップで甘くなったコーヒーゼリーを五条に与えていれば、思い出したように「あ、」と声を上げた。
「そういえば何で歯磨き粉なの?」
「それは、」
昨日の朝のことを話せば、五条は「本当にお揃いだ!」と笑うのだった。

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2023年9月8日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

愛を知ってしまった僕たちは呪われてしまった
忘れ形見朝露と共に消えていくものの続き

sideF

 五条が自分が思っているよりずっと優しい人なのだと知ったのは、実は意外と最近の話だ。知った、というよりは受け入れた、の方が適切かもしれない。とにかく、五条が自分が思っているよりずっと優しい人で、酷な人だと知ったのは中学三年の夏だった。
 急に抱けなどと言って本当に抱いてもらえるとは流石に思っていなかった。そう分かってはいても、思わず口にしてしまったのは甘えだった。津美紀が起きなくなって数ヶ月。色んなことを考えて色んな想像をして疲労感だけが募って。そんな伏黒を見兼ねて外に連れ出してくれた五条に甘えたのだ。付き合ってるから、なんて下手くそな建前まで言って。津美紀が「五条さんは優しいね」なんて言うといつだって困ったように笑う五条のことを、伏黒も同じく優しい人だと思っていたから。
「めぐみ」
 名前を呼んで伏黒の頬を撫でた五条の手はどうしてだか躊躇いがちで、この日だけ少し違った。何をそんなに苦しそうな顔をしているのか、触れようと伸ばした手はしかし優しく掴まれて遮られた。まるで自分には触れさせまいというように布団の上に縫い止められる。
「…ごじょ、」
「今日は一先ずこれだけね」
 本当に抱いてもらえるなんて思っちゃいなかった。それでも五条が少しでも伏黒に触れてくれるのなら、それに応えるように伏黒だって手を伸ばしたいと思っていたのにそれすらさせてもらえない。一方通行で、五条をそこに置いたまま伏黒だけが与えられるように唇が重ねられる。今日は、の次がいつ来るのかも、一先ずで区切られた先があるのかも分からない。
 口内に五条の厚い舌が滑り込んできて、初めての感覚に驚いて指先がぴくりと動いた。キスはした事があったけれど、こんなキスはしたことがなかった。セックスはしない代わりというように口内をまさぐる舌に必死になりながらも、きっとこうして五条は有耶無耶にするのだろうと気付く。この吐息を交換するようなキスにきっと次はない。少なくとも、伏黒はこれを最初で最後にしようと思った。ただキスをしただけの夜になる。わざわざこんな辺鄙な場所に来たのにも関わらず、五条と伏黒の関係はこれ以上進まない、そんな夜だ。それでもどこか気持ちがすっきりとしているのは、この3日間があったからだった。伏黒の為だけに与えられた伏黒と五条のことしか考えなくていい、誰にも言えない3日間。
 震える舌先で五条に応えれば、それは許されて少しだけ瞳の奥が熱くなった。


 この町を出るためにスマートフォンで経路を調べて、初めて駅があることを知った。当然名前も聞いたことがないその駅は、辿り着いてみれば酷く寂れた無人駅だった。この駅は日に数本しか止まらないけれど、運良く次の電車が来るまでにそう時間はかからなそうだった。ホームに屋根もなくて目の前にあるのは少し遠くなった海と街並み。この街の名前はきっともう思い出すことはなくて、行き方を調べることも無い。何かを捨て置いて、気持ちの整理をつけるのにも丁度いい街だ。
 伏黒にとって優しさの定義は五条と津美紀だった。五条と津美紀以外に優しい人がいるのも知っている、もっと優しい人がいるのも知っている。優しいからといってなんでもしてくれるわけじゃないのも、優しさが万能でないことも知っている。それでも伏黒は今の五条との関係を優しさからくるものだと、そう解釈した。遠くからの潮風はじりじりと熱光線に焼かれる身には心地よかった。今にも崩れてしまいそうなすっかり老朽化の進んだベンチ。そこに並んで腰掛けて、ぼんやりと考える。
 五条は伏黒の好意を知っている。それこそ何年も前から。だから今の関係がここにあるのだが、その関係には常に違和感が付き纏っていた。いつだって伏黒が五条を見上げればサングラスの隙間から柔く細められた瞳が見つめ返してくれたけれど、手を伸ばして触れようとすればそれはやんわりと止められてしまう。触れるのはいつだって五条からで、伏黒から触れられたことはない。キスひとつだって、伏黒が望めば与えてくれるけれどその逆はない。伏黒が望んだ時にだけ、五条だけが飛び越えられる一線があるのだ。
 美しいフィクションの世界では、浮かれたノンフィクションの世界では、即物的な触れ合いだけが愛ではないという。もっと見えない繋がりがあるのだという。しかしそれはお互いの持つ感情が同じであればの話だ。隣で溜まったメールに目を通している五条を見る。五条からしたら伏黒なんて子供で、そのどうしようもない子供の我儘に付き合ってくれているだけなのだ。あの時五条が好きだと瞳で訴えてしまったばかりに、応えてくれたと喜んでしまったばかりに、この歪な関係は今日まで続いてしまった。愛と優しさは違う、子供は大人にならなくてはならない。そう気付いてしまえばもう五条の優しさにいつまでもおんぶにだっこではいられなかった。
 五条越しに貨物列車が向かってくるのが見えた。ぐんぐんと迫るそれは直ぐに大きな音と風と共に2人の前を通過する。まだ尻尾の見えない貨物列車。それが起こす風に煽られながらこの3日間を思い出せば、星が瞬くように一瞬の煌きが走馬灯のように駆け巡る。目が回るほど忙しいのに伏黒の為だけに用意してくれた5日間(現実は3日間だけだったけれど、それだって凄いことだ)。伏黒の為に時間も金も何もかもを費やされた贅沢な日々。見慣れなくて、でも2度目はない寂れた街の風景も、この街の人間しか知らないだろう海鮮丼の味も、何十年前からあるのか分からないコインランドリーと駄菓子屋も、身体の大きい五条と一緒では少しだけ窮屈な旅館の一室も。何もかもがひと夏だけの蜃気楼のようだった。いつもの日常に帰れば3日と経たずに遠い昔の話のようになってしまうに違いない。それでもきっと、昨夜のキスを忘れることはない。あの触れ合いだけが確かなものだった。遠く彼方に貨物列車の終わりが見えた。思わず呟く。
「…大人に、なりたくないな」
 列車が走る音にかき消されたと思った言葉は意味までは届かずとも五条に聞こえてしまったようで、携帯電話から視線を持ち上げた五条がなんか言った?と振り向いた。
「…いや、」
 なんでもないと言いかけて躊躇う。
 五条が面倒を見てくれるのは春に入学する呪術高専を卒業するまでだ。そこが面倒を見てもらえる子供でいられるタイムリミットだけれど、その日までずっと五条の手を煩わせようとも甘えようとも思えない程度には伏黒は少し大人になってしまった。この3日間はこの関係の成り立ちに気付くいいきっかけで、大人に近付くいいきっかけで、そして多分今が一番いい区切りだった。
 ごうっ、と一際大きな音を立てて貨物列車の最後の車両が2人の前を通り過ぎる。途端に静かになった駅のホームで努めて平静に、女々しくなどならないように口を開く。
「今までずっと、付き合ってくれてありがとうございました」
 じっとこちらを見る五条がどんな顔をしているのか、サングラスに阻まれて分からないが、ああやっとかと安堵しているのかもしれない。この形だけの恋人のような関係を五条がどう思っていたか、伏黒は知らないのだから。聞いたこともなかった。
「もう、大丈夫です。…丁度来年からは五条さんが担任になるし…少し早いですがこれからは先生と生徒でお願いします」
 食い下がってもらえるとは思ってないけれど、ほんの少しでも寂しいと思ってくれればそれ以上のことはない。それすら、傲慢だろうか。
「…ん、分かった」
 少し間があってそう返事をくれた五条の表情は、やっぱり読めなかった。

_____

 しくった、そう思った時にはもう眼前に呪霊がいた。瀕死の傷を負いながらも迫ってきたそれに一瞬反応が遅れて、無防備な自身を晒すことになる。人が醜く崩れた形をした目の前のそれは、口のようなものを大きく広げた。その口の向こうには呪霊の姿には似合わない、透き通るような真っ青な瞳が一つだけあった。いやに見覚えのあるその美しい瞳と目が合ったのも束の間、伸びてきた舌先は無遠慮に伏黒の左側の瞳を舐め上げた。粘ついた嫌な音にやっと身体が動き出す。
「っ、玉犬!」
 舌先を振り払ってそう叫ぶが早いか、玉犬が2匹で呪霊の喉元と胴体と思しき所に飛び付いてとどめを刺す。声にならない叫びを上げた呪霊はもう動くことも叶わず呆気なく玉犬達の餌になった。
 ぜいぜいと肩で息をしながら舐め上げられた左目を手の甲で拭う。そう手強い相手ではなかった筈だ。あんな深手を負った相手に懐に入れられる程、自身の経験が浅いとも思っていない。きっと五条だってある程度それを見越してこの任務を伏黒に任せたに違いない。じゃあなんで、自分はあの場でまるで関係ないことを思い出してしまったのだろう。何ヶ月も前のことで、思い出さないようにしていたのに。一瞬動きが遅れたのはそれが理由だった。
 もう一度左目を手の甲で擦る。呪霊の命が尽きると同時に舐め上げらた瞳の粘ついた感触はなくなった。それなのにどうしてか熱を持って仕方ない。
 呪霊を片付け終わり近寄ってきた玉犬が不安げに伏黒を見上げる。
「俺は大丈夫だ。よくやった」
 かがみ込んでそんな2匹の頭を撫でてやれば途端に嬉しそうに目を細める。式神だというのに随分と本物のような2匹は触れば温度はなくとも毛の柔らかい感触はするし、仕事を終えればちゃんと伏黒の元に帰ってきて頭を寄せてくる。ある程度労ったところで2匹を影の中に戻すと、それと同時に今までどこに行っていたのか五条が伏黒の近くに降り立つ。ちらりと周囲を見渡して満足気に頷いた。
「こんくらいなら1人でも平気そうだね」
 しかしその後に、でも、と付け加えた。大股で目の前にやってくると伏黒の左頬に触れた。親指の腹で左目の下を軽くなぞる。
「ちょっと油断したでしょ」
 五条に触れられるのなんて夏以来だった。そこに如何なる意味も無いとしても、それだけで伏黒の身体は動きを止める。上手いこと頭の片隅に追いやれていた筈なのに、隠していた未練がどこからか顔を出すようだった。
「呪われてる」
 呪霊の唾液が垂れた辺りを指先が撫でた瞬間、かっと左の目が熱を持つ。その熱を発端に夏のことが頭の中を過ぎった。じりじりと肌を焼く太陽光線、生ぬるい風、人のいない海、そこに置いていった色々なもの。持ち帰ったもの。あの日伏黒の手を縫い止めた五条の手はひどく熱かった。
 左目の熱がぎゅうと纏まって雫になる。
「……え、」
 伏黒の左目だけから涙が零れ落ちて五条の指先を濡らしていた。どこか痛いのでも苦しいのでもない、伏黒の意志とは関係なく勝手に溢れ出すのだ。それが五条が言っていた呪いなのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。左の頬だけ濡らしていくそれを1度拭った五条は「ほら、やっぱり」と言ってからポケットから取り出したスマートフォンでどこかへ連絡を取り始めた。伏黒が押し隠していた未練を燃料にするように左目だけを満たす熱は涙という形になって次から次へと押し出されていく。おそらく高専の誰かだろう。伏黒はそこに連絡している五条をぼんやりと見ながら事前に渡されていた資料を思い出していた。


__________


sideG

「…ふぅん、今は落ち着いてるんだ」
 五条の言葉に受話器の向こうにいる家入が「もう殆ど消えかかってる。明日いっぱいだろう」と言った。
 つい一昨日のこと。伏黒が呪霊との戦闘中に軽い呪いを受けた。高専に正式に入学する前に、形としては五条の任務ではあるが伏黒1人での呪霊討伐を行った。あくまでも伏黒の今の時点での実力を測るためのもので、普段ならまず五条には回ってこない程度のそう難しくないものだ。その任務をこなす様子を少し離れた所から見守っていたのだが、途中までは五条が思っていたよりもずっと順調に祓い続けていたのに、最後の1匹になって一瞬反応が遅れた。その一瞬の油断で呪われてしまったのだが、しかし不幸中の幸いか、伏黒が貰った呪いは呪霊の強さ同様にそう強力なものではないらしく数日もすれば自然と消えるものらしい。涙も五条が任務に出掛けた昨日頃から止まり、今は入学したら伏黒の部屋となる予定の寮内の一室で静かに過ごしているのだという。
「ま、軽いもんでよかったよ。恵にもいい勉強になったでしょ」
『随分とあっさりしてるんだな。大層可愛がっていたからもっと慌てるかと思った』
「…別に、特別可愛がってるわけじゃないし」
『ふぅん』
 電話の向こうで家入がくつくつと笑う。なんだか胸の内を読まれているようであまり気分のいいものではなかった。本当は呪いが解けるまでもう少し伏黒の面倒を見てやりたいけれど、もうそれが出来る関係でもない。そう重篤でもないのに、教え子1人のためだけに他の仕事を投げ出して何日も時間を割くのは正しい教師と生徒の関係か、少なくとも五条の中では否だった。
 家入が言うには五条が仕事から帰る明後日には元に戻っているらしい。昨日から五条が呼び出された仕事は幸いにも高専からそう遠くない。このまま予定通りに終わらせてから迎えに行けば丁度いいだろう。
『まぁお前たちの仲がどうなっても私はいいんだが、一応いいことを教えておいてやろう』
「なにそれ」
『昨日、伏黒が自販機で大納言しるこを買っていたぞ』
「…は?」
 とりあえず明日には帰ってきた方がいいんじゃないか、そう言い残して五条が意味を聞く前に通話は切られてしまった。
 高専の中にある自動販売機には五条のリクエストで一つだけ大納言しるこが入っている。飲むのも基本的に五条だけで、少なくとも伏黒はまず飲まない。わざわざ五条の為に買ったのでもないだろう。それじゃあ、何故わざわざ飲まないものを買ったのか。そして家入はそれを五条に伝えたのか。通話の切られたスマートフォンを手に首を捻る。
 呪いが関係しているのかと思ったが、あの呪いは人に甘いものを食べさせるとかそんなファンシーなものではない。あの呪霊の生まれた場所、理由に起因してあれは呪いを受けた人の中の未練を勝手に増幅して涙という形にするものだ。受けた本人に未練がなければ特に害などないが、しかしあの場所で未練の無い人間など稀だ。だから被害は小さいにしろ、勝手に涙が出てくると訴える人間が多発したから依頼が来たのだ。
 伏黒が赴いたあの場所は決して恋が実らないという噂のあるスポットだった。雑誌やテレビでは特集されることはなく、SNSや世間話などでまことしやかに囁かれ続けている場所。都会から少し電車に乗れば行けるその小高い丘は、街々を見下ろす景色が意外と綺麗で愛の告白をするにはそれなりに雰囲気の出る場所だった。しかしここに雰囲気とは真逆のジンクスがあるとは知らずに告白をして実らなかった人、知っていてここで成就を阻止した人、された人。そんな色々な悲しみやら何やらが積もり積もって生まれたのが、伏黒が呪いを受けた呪霊だ。その生まれた経緯や場所に渦巻く感情に起因して、あの呪いは今伏黒の中にある未練を勝手に形にしている。
「………ん?」
 あの夏で五条と伏黒の恋人の紛い物のような関係は終わった。それ以降に伏黒が誰か他の人間に惚れたのなら呪いが発現したのも分かる。しかし夏以降も何かと任務に同行させたり稽古をつけたりとよく会いには行っていたが、その中で伏黒の人間関係が変わった気配も誰かと懇意にしている様子もなかった。上手く隠し通していたと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも五条の記憶の中では伏黒に愛だの恋だのの気配なんてまるで感じなかった。
 なのにそれじゃあ、どうして。
 自惚れだとか傲慢だとか、気の所為だとか。そう一蹴されるかもしれないが、家入が言い残した五条だけしか飲まない大納言しるこがそれに拍車をかける。幸いにも今いる場所から高専はそう遠くなくて、本来は明後日で帰る予定ではあったけれど殆どのやることは終わっていて予備日のようなものだった。本来は明後日までだが、明日で切り上げたって問題は無い。その都合の良さはまるでちゃんと話をしろと、思うことは無いのかと、誰かが問い掛けているかのようだった。
 思えばあの日に二つ返事で了承したのは、全て自分のためで伏黒とちゃんと話はしたことがなかった。

_____

 もう大丈夫だと言われた時、遂にかと思った。元々この関係は終わりのある関係だと思っていたが、その終わりが五条が思っているより早く訪れたのだと。
 時が経てば経つほど伏黒に隠している罪はその存在を大きくしてゆく。小さい伏黒が抱いていた気持ちに永遠を感じれるほど、五条が隠していることは小さくはなかった。いつか伏黒が五条の手を振り払ったとて、無知な子供がものを知ったことにすればいい。世界を知って五条が本当は優しい人間などではないと知ったことにすればいい。この関係の終わりを考えることの全てが一生付き纏う罪を五条の中から覆い隠す、都合のいい言い訳でしかなかった。伏黒の好意に乗っかって恋人みたいな関係を続けながらも常に言い訳と予防線が張られていた、歪なものだった。
 いつかきっと寂れたままに無くなってしまうこの街は、そういう終わりに丁度いい街だった。ホームの向こう、少し遠くにある海は五条の罪までは食えなくとも、2人の関係くらいは綺麗に丸ごと食べきってしまってくれるといい。本当は自分のした事を一瞬だけ無かったことにしてしまいたくて、なんのしがらみもない身軽な振りをしたくて、どこにでも行けるのだと思い込んでみたくて、駆け落ちの真似事をした。伏黒を気遣ってのことに嘘はないが、その裏には五条のそんな浅はかな思いがあった。伏黒に出会うにはこれまでの全ては必須だが、それがなければきっとこの気持ちに後ろめたさなんて感じなかった。素のままで、何も考えずに伏黒のことを好きだと言いたかったのだ。そんな浅はかな五条の思いも、この海が食べきってくれたらいい。
「…少し早いけどこれからは先生と生徒でお願いします」
 そう言って軽く頭を下げてみせた伏黒は遂に大人になってしまった。子供の成長は本当に早い。どうせ終わると思いながらも甘い夢みたいだった日々はあっという間だった。未練がないと言えば当然嘘になる。伏黒がずっとものを知らない子供のままでいてくれたらどれほど良かったことか。
「…ん、分かった」
 なにか一言でも気の利いた言葉が言えたらよかったのだけど、未練たらしい言葉が出そうで何も言えなかった。
 この子に罪の告白を出来なくなった瞬間から、もう愛していたのだと気付いたのはいつだったか。顔を上げた伏黒が真っ直ぐに五条を見る。海風に煽られる黒髪で表情の全ては見えなかった。


_______


sideF

 がこん、と鈍い音を立てて取り出し口に缶が落ちてくる。一昨日飲んでうんざりして、昨日もやっぱり飲んでうんざりした筈なのに、また懲りずに買ってしまった。なんだか伏黒の中の未練を象徴しているようで嫌になる。普段なら絶対飲まない大納言しるこは、昨日と同じ顔をして伏黒の手の中に収まった。取り出したばかりでまだ熱いそれは、左目の熱とひどく似ている。五条が出張でいなくなってからぱたりと涙は止まってしまったが、じんじんとした熱は今も変わらない。家入が言うには今日いっぱいで呪いは解けるだろうと言っていたからそれまでの辛抱だ。この熱が収まってしまえば、もう飲むだけで一苦労するこんなものを買わなくて済むのだろう。伏黒にかけられた呪いは受けた人間の未練を増すものだというから、こうして1日1本律儀にしるこなんて買ってしまうのはそれのせいに違いなかった。わざわざ五条が好みそうなものを買ってしまうなんて、呪いのせいとはいえ女々しくて仕方ない。最初から五条のことを好きだったのなんて自分だけだったのに。優しさに甘えていただけだったのに、未だにもしもを考えるなんて。
「恵じゃねーか」
 深い溜息を吐き出して自室へと戻ろうとした時、不意に声をかけられた。まだ入学もしていない自分を知っている人間は限られている。一体誰だと声のした方を振り向けば薙刀を持ったジャージ姿の真希がいた。
「…お久しぶりです」
「珍しいな。ここに来るの」
 ジャージのポケットから小銭入れを取り出した真希はさして興味もなさそうに問い掛けながら自販機の前へと立った。指先がいくつか並んだ自販機を指しながらあちらこちらへとさ迷ったのも一瞬のことで、すぐに目星のものを見つけたのか伏黒の斜め前にある自販機へと小銭を入れていく。
「ちょっと呪いを受けてしまって、消えるまではここにいさせてもらうことになりました」
「あー…じゃあ悟もここにいんの?」
「いや、出張でいませんけど…今の話に先生関係ありました?」
 スポーツドリンクを選んだ真希は、取り出してすぐにそれを開けながら「だってあいつ可愛がってたじゃん。恵のこと」と言った。その言葉に何か別の意味も含まれているような気がして首を傾げる。
 きっと五条は五条なりに伏黒と津美紀のことを可愛がってくれていた。けれどそれは教え子として、面倒を見てもらっている立場としてのもので、それ以上でも以下でもない筈だ。今となってはわざわざ数日開けてもらえる程の関係でもない。
 腑に落ちないという顔をしている伏黒を一瞥して真希は半分ほど一息にペットボトルの中身を呷った。
「前に禪院で会った時、悟がお前にべったりだったからさ。それなりに大事にしてんだなって思ったんだよ。うちの連中が何するか分かんないってものあるんだろうけど」
 五条に連れられて何度か禪院家に訪れたことがある。一番近い記憶で中学三年の夏前頃だったろうか。何度訪れたって二人のことを歓迎する空気などではなくて、あまり気分のいいものでもなかった。真希の言う通りの理由か、思い返せば常に五条が近くにいた気がするし、なんなら離れるなとも言われていた気がする。大本を辿れば禪院の人間であるのにも関わらずそこに属しない伏黒、大昔のしがらみもあって良く思ってはいない五条家の人間、そのどちらの意味でもそれ以外の意味でも視線がよく突き刺さったものだった。
 しかしその時の事を、他人から見たら大事にされていると映るのかと少し意外な気持ちになる。
「…そう、ですか」
「ま、いつまでも子供じゃいらんねーし、いなくてもおかしくねぇな」
 その言葉に呪われてしまった左目が更に熱を持つようだった。あの日にちゃんと五条との関係は捨て去って一新した筈なのに、今こうして呪いが発現するということは捨て切れていなかったということだ。この後に及んでまだ子供のふりをして五条の手に甘えたいと思っている。情けなくて仕方ない。五条があんまりにも優しくしてくれるから、我儘になってしまう。今も好きだと言ったら、もう一度真似事をしてくれるだろうか、だなんて。
 上手い返しが見つからずに黙り込む伏黒に、真希がにやりと笑ってこちらを見た。
「そういや、どんな呪い受けたんだよ」
「どんな、って…」
 まさか素直に色恋の未練が云々と言う訳にもいかず言葉に詰まる。目の前に五条がいない限りは見た目には何も変わりがないが、だからといって上手い言い訳が咄嗟に出るわけでもない。どう返したものかと考えあぐねていると、不意に真希の表情が苦虫でも噛み潰したようなものへと変わった。
「…いや、その話はまた今度でいい」
「……あの、?」
 急にどうしたんだと立ち尽くす伏黒をよそに真希はひらりと手を振った。
「面倒に巻き込まれたくねーし。それ、悟にやったら喜ぶんじゃねーの」
「…は?」
 長いポニーテールを揺らしてグラウンドの方へと向かった真希は伏黒の返事を聞く気はないらしく、振り返ることも無くさっさと立ち去ってしまう。去り際の一言だけがその場に残されて、唐突に話を終わらせた真希の行動に首を捻るしかない。手に持ったままのしるこを渡したら喜ぶだろうとは言うが、渡す相手はここにいないし渡す理由もない。余計に疑問が募るだけだった。
 話し相手もいなくなってしまった今、いつまでもここにいる理由もない。昨日に引き続いて甘ったるくて飲むのも一苦労なこれを消費しなくてはと、伏黒は真希とは反対方向へと踵を返した。
「恵!」
 その声に、知らず足元に落ちていた視線を弾かれたように持ち上げる。見なくても分かる声を認識した瞬間、伏黒の意志とは関係なく左目の熱が勝手に涙へと形を変えていく。気がつけば伏黒から数メートル離れた所に五条がいて、真希が話を切り上げた理由をそこで察する。伏黒の向こう、校舎の窓あたりにこちらへ向かう五条でも見えたのだろう。面倒に巻き込まれたくないとは五条の日頃の行いからに違いない。しかしそれよりも、今日はまだ出張だった筈なのに何故。
 思わずじり、と1歩後退りするも大股でやってきた五条にすぐ追い付かれてしまう。五条が缶を握り締めたままの伏黒の手首を掴んだ頃には再び形となった呪いが左の頬を濡らしていた。
「せんせ、」
「なんでこれ買ったの」
 伏黒にはこの手を振り払おうなどという気はなかった。どんな形であっても五条に触れられるだけで未練がましくこの身体は動きを止めてしまうのだ。
「真希と話してる時は泣いてなかったのに、何で今は泣いてるの」
 伏黒が答えられないでいる間に次の言葉が重ねられて、缶を握る手に力が籠る。目隠しに覆われて五条の表情は読めない。五条が好むものを手にして、五条の前でだけさめざめと泣く。こんなどうしようも無い姿に呆れているのか苛立っているのか、それすらも分からない。
 言葉の出ない伏黒の返事を待たずに、手首を掴んでいた手が今度は缶と一緒に伏黒の手を包み込む。血の気の引いて冷えきった手にはその温度は熱すぎるくらいだった。
 五条の顔を真っ直ぐ見れなくて足元に落とした視線の先では、なにか見えない一線があるように2人のつま先の間には距離があった。じくじくと熱さで痛む左目と、五条に掴まれて逃げられないこの状況と、なんて返せば五条の手を煩わせないかと。考えることが一度に押し寄せてなにも纏まりやしない。ただただ涙だけが言葉の代わりによく落ちた。
「…ねぇ、」
 ひとつ息を吸い込む間があった。
「恵は僕のこと、まだ好きなの…?」
「…そ、れは」
 違うと言えればよかった。しるこの缶を買ったのも間違えてしまったからで、今泣いているのもタイミングが偶然そうだっただけで、伏黒が抱える未練は他にある。そう返すことが出来ればよかったのに、五条に嘘が付けない頭は馬鹿正直に返してしまう。呪いが解けてしまえばこんな叱られた子供みたいな真似をしなくて済むのに。掴まれていない方の手で乱雑に涙を拭った。しかし何度手の甲で擦っても呪いはしっかり仕事をしてしまう。
「…すみ、ません…ちゃんと、捨てられたと思ってたんです、」
 拭っても拭っても追いつかなくて、本当は今すぐこの場から立ち去ってしまいたいけれど触れる五条の温度が勿体なくて出来なかった。そんなところも卑しくて嫌になる。
「五条先生に、…もう、迷惑かけたくないから…」
「…迷惑、って」
 涙ですっかり濡れてしまった手も掴まれてしまって、覆い隠していた視界が顕になる。左側だけ不格好に霞んだ視界の中で、伏黒の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ五条と目が合った。いつの間に目隠しを首まで下げたのか、息を飲むほど綺麗な瞳が伏黒を見ている。
 この瞳があの日は見えなかった。目は口ほどに物を言うとは言うが、それは案外真実だ。少なくとも今の五条の表情は伏黒に呆れているのでも苛立っているのでもない。戸惑いと、緊張がそこにはあった。
「迷惑なんて思ってないよ。…だって本当はあの日、別れたくなかった」
「っじゃあ、なんで、」
 あの時そう言ってくれなかったんだ、とは言えなかった。あの日あの時、五条が食い下がってくれればと願った。ほんの少しでも関係の終わりを寂しいと思ってくれればと我儘なことを思った。けれど五条がこの関係をどう思っていたのかなんて分からないから、その気持ちは墓まで持っていくつもりだったのに。なんだって今更そんなことを言うのだろう。それが気休めの優しさだとしても嬉しくて、仕方ないのだからどうしようもない。
 五条が一瞬何かを言い淀むように言葉を詰まらせて、それから口を開いた。
「いつか恵は、成長して…僕のことを好きじゃなくなると思ってたから、…あの時がそうなんだって、思って……」
 左目が焼けるように熱い。涙も勢いを増して、頬を伝って首を伝いシャツの首元を濡らし始めていた。
 五条がいや、と伏黒の腕を掴んだまま項垂れる。
「…全部言い訳。大人になったら終わるもんだと思ってたから、ずっと準備してた。でも、恵にこんなこと言わせるつもりじゃなかった」
 五条の言葉を反芻して、回らない頭で考える。どうして大人になったら五条のことを好きじゃなくなるのだろう。少なくとも小学生の頃から今まで、この気持ちに変化があったことなんて1度もないのに。夏の初めの最後にしたキスが本当は涙が出るくらい嬉しかったことを、五条はきっと知らない。
 全てのことの始まりは津美紀が林間合宿で不在だった日の夜だった。ずっと光がちらついて寿命が近かった蛍光灯がとうとう駄目になってしまって、お互いの顔が見えないままに話をした。思えば大切な話をする時にはいつもお互いの顔がよく見えていなかった。あの時にちゃんと五条が言う好きの意味を聞いておけばよかった。浮かれる前にちゃんと話をすればよかった。次の日の朝にだって顔を見て話す時間はあったのに。小学生の頭にそんなことを思っても仕方ないのは分かっているけれど、今になってああすればよかったこうすればよかったと昔のことが頭をよぎる。
「…なんで、俺が先生のことを好きじゃなくなるのか分からないですけど、」
 とうとう鼻水まで出てきてすん、と鼻をすする。
「俺の気持ちがあの日も今も変わらないなら、…それが答えじゃ、駄目なんですか」
 好きだとか愛してるだとかなんていう気持ちがどういうものなのか、具体的な答えは今だって分からないけれど、未だに変わらないそれがそうならいい。伏黒にその変わらない気持ちがある限り五条があの関係を続ける気でいてくれるのだとしたら、そこにどんな意味があったっていい。惨めに泣き腫らす可哀想な人間に手を差し伸べる慈善でもいい、この場を収めるための方便でもよかった。好きな人間に優しくされて、それがどんな形であっても嬉しくないわけがないのだ。
「…俺の気持ちは変わらないから、情けでもいいから、…また…っ、」
 ぎゅうと伏黒の手を掴む五条の手に力が込められて、それが離れたと思ったら立ち膝になった五条に抱き締められていた。思わず手から缶が落ちてコンクリートの地面にぶつかる音がした。そういえば今までに抱き締められたことはあっただろうか、なんて関係ないことを考える。
「情だけでこんなに優しくするほどいい人じゃないよ、僕」
「…こんなに優しい人、知らない、です」
「いずれ知ってくよ。そのうち呆れて幻滅して、顔も見たくないってなるかも」
「でも、じゃなかったら、…なんで」
「恵のことが好きだからだよ。好きだからずっと恵の気持ちに乗っかってたし、自分のための逃げ道を用意してたし、…それで今すごく後悔してる」
 ぎゅうぎゅうと抱き締める腕の強さに胸が締め付けられて、けれどそれが五条の言葉が嘘ではないという証明のようだった。五条は自分のことをそんな優しい人間ではないと言うけれど、今こうして話をしてくれるのだからやはり優しい人間だ。線引きをしろと幼い伏黒に教えたが、その線引きの中で五条を善人として区別したのは間違いじゃなかった。
 だからやっぱり、好きなのだ。伏黒の為にこうして後悔をして、話をしてくれて、夏休みに合わせて休みを取ってくれて、自分たち姉弟の為にお菓子を買ってきてくれて、こんなにも臆病になる五条のことが。たとえ五条が本当に善人じゃなくてもきっと好きなことには変わりない。憎んだってきっとそれは変わらない。好きだとか愛してるだとか、その具体的な形も答えも分からないが、これが愛じゃなかったら何が愛なのだろう。
「…抱き締めて、いいですか」
 五条に触れようとすればやんわりと止められてきた。伏黒が求めた時には触れてきたくせに、伏黒から伸ばす手はいつだって躱すのだ。今まではそれがこの関係が紛い物だということを暗に伝えているようだったけれど、本当は五条が言ういつか伏黒が愛想を尽かした時の為の逃げ道なのだとしたら。もしそうならこのまま触れてしまったら、この関係は本物になってしまうのではないか。そんなことを考える。背中に手を回すだけなのに、そこには大きな意味があるような気がした。
 けれど五条の返事は早かった。
「いいよ」
 少しの間も開けずにそう返事が返ってきて、おそるおそるその背中に手を伸ばす。右目も熱くて、その熱がぎゅうと丸まって雫になる。そんな段階になってようやくここが自販機の置かれた外で、屋根があるとはいえいつ人が来てもおかしくない場所なのだと思い出す。視界の端では大納言しるこの缶が転がっていて少し間抜けだった。人に見られたらなんと言い訳をしよう、とは思うけれど手のひらに触れた五条の背中にそんなものは吹き飛んでしまった。
 初めて触れた五条の背中は伏黒が思っているより大きくて、でも子供みたいに小さかった。


_________


sideG

 缶の端が不格好に凹んだ大納言しるこの缶はすっかり冷め切っていた。一先ず1度部屋に帰ろうかと伏黒の手を引けば素直に握り返されて、きっと自分はこの手を二度と離せやしないのだろうと確信にも似た何かを思う。
 あの日、抱いてくれと流れ着いた港町で伏黒がそう告げた時。ついにこの時がきてしまったと五条は胸の内で静かに震えた。喜びが半分と、逃げ出したいという気持ちが半分とで。やがて五条から目を離すことなく部屋の電気が消されて、この言葉が半ば自棄ではあろうがただの冗談ではないのだと理解もしてしまった。
 暗くなった部屋で向かい合って、まるで津美紀が林間合宿でいない日の夜みたいだった。大事な時にはいつもお互いの顔がよく見えないことに、後になって気がつく。伏黒がそう望んでいるから。そう言い訳をして頬に触れて首筋を辿り、早鐘を打つ心臓の辺りに触れた。月明かりに照らされて見えてしまった耳まで赤い顔に、これ以上は駄目だと脳が警鐘を鳴らしたのだ。どうせ伏黒も本当に抱いてもらえるとは思っていない。けれど真似事はできる。だがそれをしてはならないとなけなしの理性が止めた。伏黒の指先が五条に触れて、その手が縋るように背中に回されて、そんなことになったらきっと五条は伏黒のことを手放せなくなる。だからずっと与えるだけ与えて伏黒からは何も受け取らないようにしていたのに。
 伏黒が伸ばす手を布団に縫い止めて、そうしてこれが最初で最後の夜にしようと思った筈だった。今日はの次も、一先ずの先も、来ないようにしようと思った筈だったのに。案外早くその次は来てしまった。
 結局この子に甘えて罪の告白など出来ないままだったけれど、いつか隠していることを伝える勇気が出てきた時、五条に愛想を尽かしてもその手は離してやれない。愛と呪いは紙一重だ。
「ね、恵」
「…なんですか」
「わざわざこんなの買うくらい寂しかった?」
「……たぶん、もう二度と買わない…と、思います」
「そっか」
 冷め切ったしるこはいやに防腐剤やら添加物やらの人工的な味が目立って美味しくはなかった。しかし忘れてはならない味だった。

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きらきらぼし
事変終わった直後の話。ここまで大変なことになると思ってなかった頃に書いた。野薔薇ちゃんが生きてる

 「あんた、酷い顔してるわよ」とは釘崎の言葉だ。どんな顔だと聞けば鏡を見ろとだけ吐き捨てられ、それから釘崎にあれよあれよという間に高専の裏口から叩き出されてからやっとあれが釘崎なりの優しさだったのだと気付く。虎杖の捜索は明日からだが、釘崎が言うには予定時刻に現地にいればいいらしい。何かとばたついていて人員をそこまでしっかり動かす力がないのか、それとも釘崎が上手く上に言ってくれたのかは分からないが。
 少し空を見上げれば真っ青なそこに似合わない黒い半球が見えている。大きすぎる帳は離れていてもその姿がよく見えた。あの中に虎杖がいて、その虎杖を見つける為に行かねばならない。津美紀だってやっと目が開いたかと思えば本人の与り知らぬところでまた大変なことになっている。どうにかしなくてはと気持ちは急いて、やることだって多くて、でも時間が足りない。焦りと不安とで精神がすり減るのが目に見えて分かった。
「…叱られっかな」
 そう零した声は誰もいない裏口の扉の前に消えた。

____

 たった数日で人が随分と減った東京は、その状況も相まって閑散としている。電車やバスもすっかり1日に走る本数が減り、都内へ出入りする公共交通機関が途絶えるのも時間の問題だろう。高専を追い出されてしまったものだからとりあえず駅へ向かおうにも、そこへ向かうバスも随分と減っていた。しかし幸いにも、雑にマーカーで線が引かれたバス停の時刻表には次のバスは15分後だとあった。これを逃したら次は2時間後で、流石にバスの時間まで見越して追い出したわけでもないだろうがほっと胸を撫で下ろした。
 やがてやってきたバスに乗り込めば車内には誰もおらず、そこから駅へ向かう途中でいくつかバス停を経由したがそれでも乗り込む人間はいなかった。本当に人がいない。ちらほらとスマホを持った若者を見かけたが、きっと興味本位で写真なり動画なりを撮りに来た怖いもの知らずなのだろう。伏黒の背後にある大きな帳が今は溢れる呪霊をしまってくれているが、何かあったっておかしくはない。この状況が続けば、そのうち僅かに生き残った東京の外れも含めてここは丸ごと人が立ち入れなくなるだろう。
 曜日なんてもうこの街では意味などないようなものだが、一応日曜日だというのに駅に着いても人の姿は随分と少なくなっていた。ここから電車に乗って2駅程都会から外れた方へ行けば五条が寝るためだけに買ったマンションの一室がある。高専からそう離れていない場所に何故買ったのかといえば、あの人はあっけらかんと「恵が来やすいから」と言ったものだった。もっといい場所もあっただろうに、その程度の理由でわざわざちょっとだけ都会の喧騒から離れた場所を選んだことにあの時は呆れもしたが、今となってはそれが幸いした。
 近い将来ここへは通らなくなるだろう電車に揺られ、幾度か足を運んだ駅へと降り立ち五条が用意したマンションへと向かう。伏黒が高専に入る少し前に買ったそこは、思っていたより早く家主の帰らない部屋となってしまった。五条がそこに何度訪れたのかは分からないが、伏黒は渡された合鍵で何度か寝る為だけに無断で訪れたことがある。日当たりがいいその部屋は夢も見ないほどよく眠れたのだ。
 あの部屋の冷蔵庫には何も無い。寝る為だけの部屋なのだから当然といえば当然なのだが、食べ物も無ければ簡単な調理器具も調味料も何も無い。お湯だけはすぐ湧かせるようにと何度目かに訪れた時に勝手に電気ケトルを持ち込んだのだが、五条がそれを使ったことがあるのかは分からない。電子レンジすらないあの部屋にあるのは単身者用の小さな冷蔵庫とマグカップが2つとやかん、それから伏黒が持ち込んだ電気ケトル。インスタントコーヒーの瓶と業務用スーパーで買った袋のままの角砂糖。あとは好きなだけ眠る為にある大きなベッド。訪れたことは何度もあっても、そこで五条と一緒に過ごした回数は案外少ない。あまり約束をしたがらない伏黒を知ってか一緒に泊まろうなんて言われたことはなかったし、伏黒から一緒に寝たいとも言ったことはなかった。伏黒が訪れたら五条がいた、起きたら五条がいつの間にか隣で寝ていた、そんな小さな偶然がぽつぽつとあっただけだった。
「らっしゃーせー」
 マンション近くのコンビニに入れば気のない店員の気の抜けた挨拶が伏黒を出迎えた。店内に人が殆どいないのをいいことに大学生くらいの店員はスマートフォンの画面を覗き込んでいるが、それが許されるほどここには人が来なくなってしまった。商品の仕入れも止まったのか、棚は品切れでいくつも穴が開いている。とっくにめぼしいものはなくなっていたけれど、運良くおかかのおにぎりが1個だけ残っていたからそれとペットボトルの緑茶を手に取る。レジへと向かう最中にすっかり数の減ったコンビニスイーツが視界に入って、その中にある生クリームがいっぱいのロールケーキも一つだけ手に取った。
 案外終末が近い世界なんてのは、こんな感じなのかもしれない。


 渡された合鍵を持って五条の部屋へ上がり込めば、玄関に置かれた姿見に酷い顔をした自身がいた。釘崎が言っていたことの意味をやっと知る。目の下にうっすらと隈が浮いて、疲れた顔をしている。明日から始まる日々に耐えられるかも分からないような。まだ始まったばかりなのにあまりにも心許なくて、釘崎が怒るのも納得だった。津美紀が見たら心配しながら叱るだろうし、五条が見たら呆れるだろう。どうしようもない様に自嘲して、明日の朝まで世話になるつもりの部屋の中へと足を進めた。
 リビングへのドアを開ければ、そこは最後に見た時と変わらないままだった。椅子のひとつもローテーブルのひとつも無いまっさらなリビングに、必要最低限の物すら揃っていないキッチン、閉じられた寝室のドア。もう時刻は昼を少し過ぎていて、窓から差し込んだ日差しがフローリングを温めていた。五条が選んだにしてはよくある普通の2LDKで、初めて案内された時に少しだけ拍子抜けした記憶がある。お金ばかりが有り余っている人だったから、もっと広くて目をむくような金額の部屋を選ぶんだと思っていたから。
 差し込んだ日差しに照らされて埃がきらきらと光るのが見えた。最後に人が訪れてから日が経っているのか、少しだけ埃っぽかった。人の代わりに埃が住んでいるのは物哀しく思えて、小さくため息を吐き出してから伏黒はまた部屋の外へと向かった。あのコンビニにはタオルくらいはまだ残っていただろうか。この部屋には本当に何も無くて、埃ひとつ掃除するのにすら少し困った。

______

 タオルと一緒にフローリング用のウェットシートを手に戻ってきた伏黒は、それを取り出して床の掃除を始めた。フロアワイパーが売っていればよかったのだけど生憎売っておらず、当然この部屋にもないから雑巾がけの要領でやるしかなかった。コンビニ以外の場所に足を運べばあったのだろうが、それでもあまり長くこの部屋から離れたくなかった。
 明日の朝まで時間はある。適当に床を拭いて、ついでに目に付いた場所を軽く掃除したって余るくらいだ。ぬるいフローリングに手をついて黙々と床を拭き始めれば、伏黒が思っているよりこの部屋は無人だったのか思ったより黒くなった。不意に顔を上げればカーテンの隙間から帳が見える。東京の殆どをすっぽりと覆っているそれは、窓から見える景色の半分以上を埋めていた。空が真っ黒に大きく切り取られている。
 本当はこんなことをしている暇なんてない。今すぐにだってあの中に飛び込んで、やらないといけないことがある。伏黒1人がこんな場所で呑気に掃除なんかしていい場合じゃないのだ。釘崎に追い出されてもまた戻らなければいけなかった。ずっと分かっていたのにそれが出来ずにこの部屋まで来てしまった。叱られたっていいから。
 次々と買ってきたウェットシートが消費されていって、やがて最後の1枚を使う頃には日は傾いて薄暗くなっていた。すっかり日が短くなって薄暗い部屋の電気をつければ、何となく最初に来た時よりは綺麗になったような気がする。次に誰かが来る時にはまた埃が積もっているかもしれないが、もしもそれまでに五条がこの部屋へ来れることがあったら少し綺麗になった部屋に驚けばいい。
 もう冬とはいえ少し動いた身体は僅かに汗をかいていて、軽く汗を流そうと思い立つ。あまり期待はしていなかったが着替えのひとつくらいは無いだろうかと寝室に向かえば、案の定クローゼットの中はまっさらだった。五条がどうしていたのかは分からないが、伏黒が寝に泊まる時は着替えを持参して持って帰っていたから置いてあるはずもなかった。釘崎に追い出されたままにここまで来てしまったから当然持参もしていない。
「…本当、どうしようもないな」
 空っぽのクローゼットの前でため息を吐き出してから少し悩む。着替えを買いに行くか、シャワーを浴びずに寝るだけ寝るか、シャワーを浴びて同じ服に着替えるか。
 そうして少し悩んだ末に、昼間に買ってきたタオルが3枚セットの徳用で、掃除に使ったのは1枚で残りが2枚あることを思い出した伏黒はシャワーを浴びることにした。朝には高専に戻るつもりであったから、戻った時に着替えるでもすればいいと納得させて。


___


 軽く汗を流した頃にはもう窓の外は真っ暗になっていた。冷蔵庫に入れていた緑茶とおにぎりを手に持ってベランダへと向かえば、夜空よりも暗い色をした帳がやはりそこにあった。窓を開ければ冬の冷たい風が吹き込んで、温まった体を途端に冷やす。
 街明かりの減った東京は信じられないほどに星が多く見える筈だった。けれど目の前には視界の殆どを埋める帳があって、星がある筈の夜空を隠している。月すらも帳の向こうにあるのか見えなくて、常より暗いだけの空を眺めながらペットボトルの蓋を捻る。冷えたお茶が染み渡っていく感覚は少しだけ心地よかった。おにぎりの封も開けて口にすれば、何も考えずにレジ袋ごと冷蔵庫に入れたのがいけないのだけど米が少し固くなっていた。夕食と言うにはお粗末なそれを食べ進めながら五条が昔口ずさんでいた童謡を思い出す。
 小学生の時、音楽の授業できらきらぼしをやった。テストできらきらぼしを鍵盤ハーモニカで演奏することになった伏黒が、家で練習するためにそれを持ち帰った日にたまたま五条も家に来ていたのだ。伏黒が持っているそれを見て「懐かしい」と言った五条は勝手に取り上げると、鍵盤ハーモニカを入れていた手提げに一緒に入れていたきらきらぼしの楽譜を見ながら軽々と演奏してみせた。手提げの中で少し皺になっていたプリントを数度目でなぞっただけで完璧に演奏して、一通り弾き終わるとやっぱり「懐かしい」と笑った。それからこれが今度テストでやるのだと知った五条が伏黒に教えてくれたりもしたのだが、その時伏黒が奏でる大して上手くもないメロディに乗せてきらきらぼしを口ずさんでいた。
 それを、不意に思い出す。
 あの後五条の教えもあって伏黒は音楽のテストで満点を取って帰ったのだが、その結果を聞いて何故か五条の方が得意げだった。あれから伏黒がまたきらきらぼしを演奏することも、それに合わせて五条が口ずさむこともなかったけれど、それは伏黒が思っているよりずっと鮮明に記憶に残っていた。きらきらひかるほしは、今もきっと伏黒達を見つめている。この場に五条がいれば今の伏黒のように昔を思い出して懐かしい歌を口ずさんだかもしれないし、津美紀がいれば伏黒が練習していたのを知っているから同じようにこの話をして懐かしむかもしれない。そんないつかがあるかも分からないけれど。
 明日になったら、朝になったらここを出ていかねばならない。ここで眠れる日は次はきっとない。あったとしたらそれは奇跡だ。
 星の削れた夜空を眺めながら残りのおにぎりを雑にお茶で流し込めば、後はもう寝るだけだった。冬の夜風で身体は冷えていた。

 寝るにしては随分と早い時間。それでもベッドの中へと潜り込めば、ゆっくりと睡魔がやってくる。伏黒が思っていたより身体は休みを欲しがっていたのか、それともやっと眠る気になったのか。布団の中で小さく丸まって伏黒は目を閉じた。

____

「津美紀が起きて恵が卒業したらさ、この部屋あげる」
「…は?」
「都会からはちょっと外れてるけど駅から近いし、必要な店もある程度近くに揃ってるし、なにより僕がお金出してるから家賃いらず!」
 五条がそう得意げに言ったのは、たまたま伏黒が寝に来た日に五条もやってきた珍しい日の朝だった。ベッドの上で行儀悪く珈琲を飲みながら急に思い出したようにそう口走ったのだ。
「いや、あんたが寝るために用意した部屋でしょ。要りませんよ」
「今はそうだけど、ゆくゆくは恵達にあげるために買ったんだから受け取ってよ」
「あげるため、って…」
「前のアパート取り壊されちゃったでしょ?だから新しい2人の家がいるなって」
 砂糖が何個も入った甘いであろう珈琲を啜りながら、五条は悪くない話でしょと言う。2人で暮らしていたあのアパートはもう形もない。卒業したら津美紀と暮らすために高専を出る予定だった。五条が用意した部屋ならセキュリティだって十分だろうし、先程言われた通り場所だって悪くない。確かに悪くは無い話だけれど、その時の伏黒は素直に頷けなかった。いつもの五条を思えばあっけらかんと一緒に暮らそうなんて言いそうなのに、当たり前のように伏黒の隣には津美紀なのだと一歩引く、そんなところに。
 確かに伏黒は卒業したら津美紀と暮らせる家を探す予定だ。けれど五条自らに先手をとって一歩引かれてしまうのは、矛盾しているがあまりいい気分ではなかった。だからあの時の伏黒は五条と対称的に砂糖ひとつ入っていない珈琲を啜りながら言った。
「どうしてもいい所が見つからなかったら、受け取ります」
 津美紀がいいと言ったら3人で暮らしたい、とは言えなかった。

 ふ、と瞼を持ち上げれば窓の外はまだ薄暗かった。あと1時間もすれば太陽が顔を覗かせる時間、きっと東京の大部分を覆う帳がなかったら地平線の向こうにうっすらと朝日が見えていたかもしれない。思っていたよりしっかりと眠れたようで頭はすっきりしていて、その分さっきまで見ていた夢の内容をよく覚えていた。結局あの話はなあなあで終わり、将来この部屋がどうなるかは未定のままだった。どこもかしこも必要最低限の物すらないのは、五条にしては小さい部屋なのは、全て伏黒が姉と一緒に暮らす時の為だ。玄関にもリビングにもキッチンにも物がないのはいつでも出て行けるようにだ。空っぽの部屋はいつでも新しい家主を迎える準備をしている。
 深く深く溜息を吐き出して、伏黒はベッドから起き上がった。1度高専に戻らねばならない。ぼんやりと時間を浪費する訳にはいかなかった。冷たい朝の空気とフローリングは、より一層伏黒の頭を冴え渡らせる。まずはキッチンに向かってケトルに水を注ぐ。スイッチを入れてから伏黒は昨日コンビニで貰ったレジ袋にゴミを纏め始めた。といっても伏黒が持ち込んだものと言ったらおにぎりとペットボトル、掃除のために使ったタオルやフロアシートくらいだったから分別も関係なく袋に詰めてしまえばそれで終わりだった。部屋の明かりもつけていない薄暗いキッチン、まだケトルの湯は沸いてなかった。
 マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れたところで、昨夜食べずに放置したままのロールケーキがあるのを思い出した。出て行く前に食べなくてはと冷蔵庫から取り出して、そこで何故買ったのかも思い出す。いつだかに五条がここのロールケーキが美味しいと言っていたのだ。真っ白な生クリームがぎゅうぎゅうに詰められた1切れのロールケーキ。いつもの伏黒なら絶対買わないそれは、まるで伏黒の中の寂しさを形にしたようだった。
 ずっと形にしないように見て見ぬふりをしていたけれど、今伏黒は寂しかった。寂しいとか、心細いとか、そんな気持ちを見ないようにしていた。家族と呼べる人が殆どいなくて、その唯一とも言える少ない家族は大変なことに巻き込まれて、そんな時助けてくれるような家族に近しい人も今はいない。帰ってきてもらうつもりだけど、帰ってきた時伏黒がそこにいる確証はない。3人で暮らせる日は来ないのかもしれないし、つい数日前に見た五条が最後になるかもしれない。本当はそんな余計なこと、考えている暇すらないのだけど。
 何も無いリビングに半円の影を引き連れて歪な朝日が差し込む。沸いたケトルの中身をマグカップに注いでから、五条の真似をして角砂糖を何個も入れてみた。軽く混ぜれば底の方で少しだけざらざらとした感触がして、飲むのが少し躊躇われたけれど1口啜る。
「……まず、」
 あの人こんなもの飲んでるのか、そう口の中で転がしてから買ってきたロールケーキを食べればやっぱり甘かった。甘いと甘いでくどいのに、捨てようとは思えないのはやっぱり恋しいからだった。
 これを食べ終えたらこんな感情はゴミ袋と一緒に纏めてしまわねばならない。朝の電車で帰った時、釘崎にまた叱られてしまわない為に。

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閑話休題

 決して身体が小さいという訳では無い筈だし、今も少しずつ背丈は伸びているが、きっと五条の服を借りて肩が滑り落ちない日は来ないのだろう。丈の長いシャツとなれば履いている下着がすっかり隠れてしまう程度には裾が余る。だが伸びても伸びても足りないこの身体が悔しいと思うのはとっくにやめた。
 シャツから伸びた素足にフローリングの床。足裏の体温と床の温度が混ざって溶けていくのを感じながらキッチンでぼんやりとケトルが沸くのを待つ。もう夏の名残は随分と薄れ、冬へと少しずつ季節は変わっていた。すっかり短いものとなった、あっという間に過ぎ去る秋だ。目覚めた時には太陽はもう真上から少し落ち始めていたが、陽も短くなり始めた9月となればやっと見たこの太陽もすぐに姿を消すだろう。随分と贅沢で、勿体ない休日の使い方だ。
 用意したマグカップは自分の分の一つだけ。よく寝ている五条がいつ起き出すか分からないからケトルの中身は2人分。
「恵ぃ、僕の分ないの?」
「…あんたの寝顔でも見ながら飲もうと思ってたんで」
 しかしケトルが沸いたことを知らせると同時に、いつの間に起き出したのか五条に後ろから抱き締められる。背後から伏黒と同じ素足の音がしたから気付いてはいたが、振り向かなかったのは五条がこうすることを分かっていたからだ。分かっていて動かない、ということはつまりそういうことだ。
「へぇ、優雅な朝じゃん」
「もう昼過ぎですよ」
 背中に五条を貼り付けたままシンクの水切りに置かれていたカップを手に取る。伏黒と同じインスタントコーヒーを適当に入れ、ケトルの中身を注いで手渡せば「ちゃんと用意してるじゃん」と五条がくつくつと笑った。スウェットの下しか身に付けていない五条の素の胸が頭の後ろに触れ、じんわりと熱を伝える。寝起きの人間特有の眠気を誘うようなぬるい温度は昨夜とは真逆だ。触れられるだけでそこから五条の温度に染まっていく様な昨晩を少しだけ思い出す。窓の外では涼しくなり始めた風が吹いているだろう。伏黒の項だけが勝手に熱を持つ。
「ねぇ、今日は砂糖何個まで?」
「3」
「けち」
 伏黒の背中から離れた五条は、キッチンの戸棚にあるシュガーポットから言われた通りの角砂糖を入れながら口を尖らせた。それを何の気なしに目で追いかけて、深い意味はないのだけど、年齢も考えずに口を尖らせた五条が少し可愛くて可笑しくて横から手を伸ばす。既に蓋の閉められたシュガーポットを取り上げて、閉められたばかりの蓋を開ければ五条は「珍しいね、ブラック派じゃん」と目を丸くして言った。青い目が昼過ぎの光を受けて瞬く。
「ブラックのままですよ」
 先程伏黒が五条を目で追ったように、今度は五条が伏黒の動きを追う。その視線から逃げる様にシュガーポットへと視線を落として、その中身を五条のマグカップへと3つ落とした。
「俺の分の3個、あげます」
 伏黒の動きを追いかけて音もなく溶けていく追加の角砂糖3個を呆然と見つめている五条は少しだけ間が抜けている。昔からよく表情のよく変わる人だった。それが見ていて飽きなくて存外好きなのだと、言ったことはあっただろうか。
 勝手に緩む口元を隠しもしないで、立ち尽くす五条をそこに置いたままリビングへと向かう。リビングと繋がる開けっぱなしのドアからは寝室が覗いていて、寝乱れたベッドがそこにあった。昨夜伏黒が寝落ちた後に整えてくれたのだろう、少ししか乱れていないそれにまた少し気恥ずかしさを感じる。着替えもそこにあるのだが、取りに行こうという気にはならなかった。
「…はぁ〜〜……」
 未だキッチンに立ち尽くしたままの五条から大きなため息が聞こえて、けれどそれが悪い意味ではないことは明らかで伏黒は持ち上がりそうになる口角をコーヒーを1口啜ることで誤魔化した。
 必要最低限のものしかない五条の部屋。高専にある職員寮とは別にあるこの部屋は、遠征で遠くに出向くことの多い五条がわざわざ帰るのが面倒な時に寝る為だけに借りている部屋だ。最初は何もなかったこの部屋に電気ケトルやら揃いのマグカップやらインスタントコーヒーやらを置き始めたのは伏黒だが、カーテンやソファ、ローテーブルを置いたのは五条になる。示し合わせた訳では無いが、自然と2人が持ち込んだものが増えていった。津美紀が起きなくなってから少しずつ訪れるようになって、そろそろ1年経つ。ここは誰も知らない五条と伏黒だけの城だ。
 家具は少しずつ増えているとはいえこの部屋にテレビはない。座ったソファの目の前にあるのは時計だけがかけられた白い壁だ。そもそもの物が少ないからチェストを買う必要もなくて、かろうじて置かれた時計だけが壁を彩っている。コーヒーを啜りながらぼんやりと見た時計はもう3時半を指していた。
 やがて動き出した五条が忙しない足取りで伏黒の隣に腰掛けると、その勢いでソファのスプリングが跳ねてカップの中のコーヒーが暴れた。
「ちょっと!危ないでしょう」
 服にこぼれることはなかったが、危ないだろうと五条を叱る。しかし行儀悪く角砂糖6個が溶かされたコーヒーを持ったままの五条は伏黒の言葉など気にもしないで肩口に額を押し付けた。剥き出しになった首元に髪が触れて擽ったい。
「だから、危ないって言ってるでしょ」
 自分の分と五条の分のマグカップをテーブルに置きながら再度言えば、空いた両腕でもって抱きすくめられた。伏黒より逞しい腕が簡単に腰を絡めとって動けなくなる。
「さっきのは凄いグッときた」
「は?」
「めちゃめちゃ愛されてんの感じてすごい心にきた」
 たかが角砂糖3個分。たったそれだけの安すぎる愛だ。こんな安すぎるものでこんなにも喜んでもらえるのなら、いくらあげたっていい。そんなことを思う。ここは伏黒と五条しかいないのだから。何をしたって、何を思ったって、誰にも分からないのだ。
 だが伏黒はまた今度あげますよ、とも気が向いた時くらい、とも次はそのうち、とも言えなかった。
「安い感動ですね」
 未来の約束を簡単にできるほど、伏黒は強くはないのだ。当たり前のように次の朝日を拝むことが出来る保証だってない。こういう約束が出来るのは五条みたいな人間だけだ。
 これが最期のコーヒーかもしれない。なんて。
 手持ち無沙汰になった両腕を五条の頭に乗せて犬にするように撫で回すと、されるがままになっている五条の腕の力が少しだけ強くなった気がした。起きる前はベッドシーツがぐちゃぐちゃになるような事をしていたのに、こんな時間に起き出してみればそんなの忘れたようにコーヒーを飲まずにじゃれ合う。唯一の名残といえば寒々しい伏黒の足と五条の上半身くらいだろうか。
「恵」
 不意に顔を上げた五条と目が合う。宝石みたいだ、なんてよくある表現が似合う瞳に伏黒が映っていた。虎杖にも釘崎にも、津美紀にだって見せられないようなだらしの無い顔をした自分がそこにいた。
「好きだよ。すごく好き」
 知ってる。そう答えようとしたのに言葉は寄せられた唇に挟まれて消えてしまった。


___

 流れる血に比例して体温がどんどんと下がっていくのが分かる。指先なんて冷えきってしまってもう感覚だって曖昧だ。それでもただ殺されるのを待つことなんてできやしなかった。少しでも自分の後に残る人達が報われるように。助けになるように。出来ることはしないといけないのだ。
 もう動くことすら出来ない伏黒の後ろで、呼び出された大きな人の形をした式神が一切の容赦なく腕を振り上げたのを感じた。
 死ぬつもりで生きていた訳では無い。でもいつ死んでもいいようには生きていた。悔いのないように死ぬのは難しい。自分が死ぬ時のことなんて誰にも分からないからだ。それでもなるべくいつ終わってしまってもいいようにしてきた。けれど、時間にしてほんの一瞬だろうに伏黒の頭の中では色々な事が流れ出す。これが走馬灯か、なんてそんなことを思い浮かべることだって出来た。
 後でな、なんて言葉を交わしておきながら守れやしない。だから伏黒は次のある約束が好きじゃなかった。次なんてない方が悔やまずに済むのに。悪い、なんて謝ったって誰にも届きやしない。死ぬ時は独りだという五条の教えは正しかった。
 後悔を浮かべるとしたらその守れなかった口約束と、津美紀が起きるのを待てなかったことだろうか。それと、なんて浮かべそうになった未練は考えないようにした。
「先に逝く」
 伏黒にとって五条とは絶対の無いこの世界で唯一絶対いなくならないと思える人だった。今となってはその絶対は崩れ去ろうとしているが、まだこの戦いが終わらないうちは辛うじて伏黒はその絶対を信じれた。
 朝日を迎えた頃か、それともまだ先か。もう伏黒が知る術はないが、とにかく伏黒がいない先で五条がまたあの部屋に訪れることがあればいいと思う。その時にほんの少しでも伏黒のことが頭に過ぎれば、それだけで。
「せいぜい頑張れ」
 しかしそれでも、振り上げられた腕が当たる直前、浮かべないようにしていた事がやはり伏黒の中に未練たらしく浮かび上がる。
 あの日入れた角砂糖は、結局2度目はなかった。


____

 ふっと目を覚ますと、すぐ目の前に五条の寝顔があった。ただでさえ作り物の様な顔が、目を閉じられて動かなくなってより一層作り物じみて見える。部屋はうっすらと明るくて、それで今が朝日の昇り始めた時間なのだと知る。薄ぼんやりした中でも五条の姿は僅かな光を吸い込んでよく見えた。
 手を伸ばして五条の頬に触れれば当たり前に暖かくて、その事に涙が出そうになった。ちゃんと暖かくて柔らかくて、そこにいる。そのまま五条がよく寝ているのをいいことに飽きずに頬を撫でたり摘んだりしていれば眼前の長い睫毛が震えた。咄嗟に離そうとした手が掴まれる。
「撫でるだけ?」
 持ち上げられた瞼の向こうにある瞳がじっと伏黒を見た。こんなに顔を触っていれば起きることなんて分かっていたけれど、五条が起きたことにほんの少しの気まずさとそしてそれ以上の喜びがあった。五条がここにいることだって嬉しい、でもそれ以上に伏黒が自らの手で再び五条の温度に触れられていることに胸が詰まる。
 五条の言葉へ返事はせずに、浮かんだままの言葉を取り留めもなく落とした。
「…俺の手で触れてることに感動しました」
 掴む腕は伏黒の動きを止めるほどの力はなくて、頬に乗せていた手を今度は寝癖知らずの素直な髪へと滑らせた。少しずつ少しずつ白んでいくベッドの上で伏黒の指と五条の髪とが絡み合う。
 ただ触れるだけの感動。安い感動だ。そう思っても伏黒も五条も言わなかった。この安い感動と愛でもって五条と伏黒の関係は成り立っているのだ。幸せなんていうのは、安ければ安いほどいい。それこそ角砂糖3個分くらいの。
 いつ死んでしまってもいいように生きてきた。これからだってそうだ。朝早いから二度寝でもしようか、なんて言って二度と目が覚めないとしてもいいように。この場合、目が覚めないのは伏黒だけだが、それでもいいように。しかし未練というものは、結局最期の瞬間には浮かんでくるものなのだろうけれど。
「そ、いい朝じゃん」
「早朝すぎますけどね」
 白んでいく空が少しずつ寝室に色を与えていく。2人が持ち込んだ物しかない寝室にはベッドとサイドチェストしかない。時計なんてものはなかった。昇る朝陽だけが時間を教えてくれる。
 美しい時間とはこのことを言うのだ。
 今朝の伏黒はいつもよりセンチメンタルで、涙腺も脆い。それはきっと、たぶん、最期を垣間見たからに違いない。
「コーヒー、飲みますか」
「恵がいれてくれるなら飲もうかな」
 冬の空気はひやりとして布団から出ている腕が寒いくらいで、そしてやっぱりまたこんな朝が欲しいなんて言えなかった。

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朝露と共に消えていくもの
2020年頃に書いたから色々齟齬がある

 子供の思っていることなんて手に取る様に分かる。まだ拙い小さい手で、どこか覚束ない足で、真っ直ぐにしか見れない瞳で、物事を知らない頭で、隠し事などできる筈もないのだ。隠そうとしているくせに、何にも隠しきれていない。その幼さを愛らしい嬉しいと思いこそすれ、それ以上のものはなかった。土産を持って行けば片方は素直に飛び跳ねて喜んで、もう片方はまたかとうんざりした顔を向ける。そのくせ瞳の奥には五条が持ってくる美味しいものへの期待が滲んでいる。絵に描いたようにきらきらとする瞳を、好意を向けられて喜ばない人間の方が稀だ。
「今日のおやつはマドレーヌ持ってきたよー」
 そう言いながら道中で買ってきた紙箱を掲げて見せれば、玄関まで駆け寄ってきた津美紀は頬を紅潮させてやったぁと弾んだ声を上げた。頭がぶつかる玄関を潜り抜けるのもすっかり慣れたもので、狭い三和土に靴を置いて六畳一間へと上がり込む。玄関ドアを開けるだけで全てが見渡せてしまうような小さい部屋は、しかし幼い子供二人には十分な大きさだった。子供だけであれば、の話だが。
 室内でも天井が五条の頭を擦るものだから、津美紀にマドレーヌを渡してすぐに畳の上に座り込む。そのまま行儀悪く畳を擦りながら玄関に出迎えもしない恵に近寄れば、丸いちゃぶ台の上には宿題が広げられていた。欠伸が出る程に簡単な算数の宿題だった。ドリルという、五条にはもう存在すら随分と懐かしいそれを広げてせっせと割り算を解いている。
「恵、五条さんが来てくれたんだからあいさつして」
「…どうも」
 五条には目もくれずに淡々と計算をこなしていたというのに、津美紀が言えば簡単に振り向く。それが少々癪だと思わないでもないが、まだ丸い手でもって鉛筆を握って単純な割り算に悩んでいる姿は悪くなかった。恵の肩は顎を乗せるには小さすぎて、代わりに頬が触れそうな距離で横からドリルをのぞき込む。
「基礎はちゃんとできてんだ」
 ページの下部にぽつんと残されている応用問題の一つで頭を悩ませているようだった。五条から見れば考える必要もないようなものだが、幼い頭では難しいのだろう。問題の横には書いては消したのだろう計算の跡があった。すっかり視線をドリルに戻した恵は返事を返さない。けれどそれもいつものことで、どうせ五条が持ってきた菓子を見ればあっさりと頬が綻ぶのを知っている。
「解き方のコツだけ教えてあげるからさ、これ終わったら晩御飯食べようよ」
 マドレーヌ買ってきたんだよ。再度そう言うと恵はドリルばかりを見つめていた目を持ち上げて台所へと向けた。台所の空いたスペースに五条が持ってきた箱を置いている津美紀を見て、ちょっとだけ目尻が緩む。つんけんした表情から、ほんの少しだけ丸い表情になる。子供は菓子が好きだ。
 その表情を答えとして恵が握っていた鉛筆を取り上げる。あ、と小さく零したのを無視して何度も消した跡のある場所にヒントとなる数式を書いていく。横でいらないだとか余計な事すんなとか聞こえた気がしたが、空腹には変え難い。それに口では文句を言いながらも鉛筆を持つ手を邪魔することはしないのだから分かりやすい。2年ほどの付き合いでもこの子供が決して馬鹿ではないことは知っている。もうこれで答えを導き出せる筈だ。
「もう分かるでしょ?津美紀とご飯の支度してくるから早く終わらせて机の上片付けてね」
 鉛筆を置いて恵の頭を軽く撫でれば「そんなのなくてもいい」とほんのり染まった頬と尖らせた口で言うが説得力なんてものはありはしない。恵が宿題の続きを始めたのを確認してから台所にいる津美紀の方へと向かう。立ち上がると天井に頭がぶつかるのが難点だが、流石に座ったままじゃ手伝いはできない。中腰になって津美紀の手元を覗き込めば、子供には不釣り合いなほどに大きく見える鍋の中にカレーがいた。部屋に入った時からカレーの匂いがしていたから分かっていたけれど、いざ実物を目にすると途端に空腹感が増す。どうしてカレーは匂いだけでこうも人の食欲を刺激するのだろうか。ルーの中で不器用に切られた不格好な肉と野菜が泳いでいた。
「二人だとあまっちゃうから悟くんがきてくれてよかった」
 お玉で中身をかき回したまま津美紀がこちらを振り向いてにこりと笑う。子供二人分をまだ上手く作れない子供らしさで鍋いっぱいに入ったカレーはきっと甘口だ。
 余ったカレーをアレンジする方法も、丁度いい量の作り方も教えてくれる大人はいない。きっとそんな大人はいなくてもすぐにどこかで覚えてしまうのだろうけれど、しかしこの部屋のそこかしこに子供だけの拙い生活が転がっていた。
「じゃあいっぱい食べちゃお」
「いつもおせわになってるから、少しでもお返しになるかな」
 台所にあるのは年季の入った冷蔵庫とかろうじて電子レンジ。炊飯器なんてものはなかった。だからこの子たちはいつだって安売りされているパックの白米しか食べないし、特売の総菜パンか賞味期限が近い食パンばかりをよく食べる。五条が毎月の生活費を渡しているとはいえ、その金が無限ではないことをもう知っているのだ。言ってくれればいくらだって増やすことはできるけれど、全てのものに限りがあることを知っている子供たちはそんなことを言いやしない。ちゃんと生きる為に必要なことをまだ知る必要のないその幼さで知っている、我儘を知らない子供達だった。
「津美紀は素直でいい子だねー、恵は素直じゃないけど」
 ちらりと振り返ればもうドリルを閉じた恵がランドセルを開けているところだった。どうやら無事に宿題は終わったようで、ちゃんと片づけをしているらしい。
「ご飯でもレンチンしようかな」
 カレーの美味しそうな匂いから一旦離れて台所の端に積まれたご飯パックを4つ手にする。津美紀と恵で一つずつ、五条で二つだ。小学生に晩御飯をご馳走になるなんて人が聞いたら信じられないと叫びそうだが、その代わりにご飯パックが何個も買えるくらいの有名店のお菓子を持ってきているからいいだろう。
 レンジの扉の向こうでご飯パックがぐるぐると回り始める。テレビはあれど電源はつけられていないこの部屋では、温まるまでの数分も長く感じた。温まるのを待つ五条の横で、小さい身体がちょこまかと動き回ってはスプーンやら飲み物やらを用意している。洒落たグラスもないここでは、きっと両親が残していったのであろうプラスチックのコップくらいしかない。飲み物だって、どこのブランドか分からない安売りのペットボトルの麦茶。おかずはきっと昨日買ったのであろう惣菜の残り物。
「はいこれ」
「ありがとう」
 1つ温まれば準備をしている子らに手渡して次を。そうやって準備を進めていって夕食が並んだちゃぶ台の上はひどく質素だ。五条の分だけしっかり白米は盛られて、恵と津美紀はパックの片側に寄せただけ。その空いたスペースによそわれた甘口のカレー。残り物であろうスーパーで売られているマカロニサラダと唐揚げ。市販の麦茶。準備の終えたちゃぶ台の前で手を合わせていただきます。五条がいない時もこうして食事を摂っているのだろうなという自然な流れだった。
 少し歪ではあるが出会った頃と違って野菜も肉も繋がってないし半生ということもない。味が濃すぎることも薄すぎることも、包丁で指を切って絆創膏を貼るようなことも減った。五条から教えたことなんて殆どないが、少しだけその成長が寂しくも嬉しく感じた。子供の成長は目が回るほど早い。
「美味しく出来てるじゃん」
 一口食べてそう言えば、津美紀はよかった!と笑った。
「このにんじんね、恵が切ったの。上手でしょ」
 スプーンの上に人参を乗せた津美紀が、切った本人より得意げに言う。他の野菜との違いなんて分からないけれど、あまりにも自慢げな顔をして言うものだから五条は「やるじゃん恵」なんて言って黙々とカレーを頬張る彼の頭を雑に撫でることしかできなかった。されるがままに頭を右に左と揺られている素直じゃない素直さが可愛らしい、だなんて。
 学校であったことやいつも行くスーパーでの出来事、五条がいない間に話したいことは随分と積もっていたようで次から次へと話題が飛び出す。それを微笑ましく聞きながら今日はいつもより間が空いてしまったな、なんてことを考えた。
 最低でも月に一度はここに来るように決めているけれど、今回は間が空いた。多くて2週間に1度、少なくても3週間に1度は来ていたのだけどここ最近は仕事が立て込んでいた。あちらこちらで3級から2級程度の呪霊が多発したのだ。個々はそれほど怖くはないが、1度祓えば次の日には別の場所でまた現れる。元から人出の足りていないこの業界でそんなことがあれば五条が駆り出されないわけが無い。呪霊があちこちで出るなんてよくある話だが、それにしても頻度が高すぎた。この程度で五条どころか呪術界にも世界にも何かが起きるとは、この騒ぎを起こした張本人は露ほども思っていないだろうに。そうして西へ東へと飛び回って急にぱたりと静かになったのが一昨日のこと。いつもなら手早くさっさと済ます報告書だってこれだけ数が多ければそうもいかない。報告が終わってひと段落したのが昨日のことだった。対して強くもない呪い、祓うのに体力を使うようなことも無い。それでもひと段落した頃にはどっと疲れが押し寄せてきた。この騒ぎの後ろにいるのが誰なのか、分かるからこそ余計に。
「それでね、悟くん」
 3分の2ほど食べたところでスプーンを置いた津美紀がじっと五条を見る。少しだけ緊張を乗せた瞳が右に左にと1度さまよって、頬はちょっと赤い。何か言われるな、考えるまでもなく分かった。おずおずと津美紀が口を開く横で恵は何も気にした風もなくカレーを食べていた。
「恵とご飯がたべれたり一緒に学校行けたり、ここで暮らせてるのが悟くんのおかげだってちゃんと全部わかってるよ。いつも本当にありがとう」
 照れくさそうに津美紀がはにかむ。
 なんと言葉を返したらいいのだろう。2人が暮らせるようにと、2人が本来だったら歩む筈だった未来を曲げたのは自分だ。けれどその代わりに言ってないこともあるし恵の将来はもう決まってしまった。ろくな大人を知らないこの子達は2人で暮らせる環境と資金をくれる五条を悪人だとは思っていない筈だ。将来恵は必ず呪術師というものになることは本人も津美紀も知っている。それが条件で今の生活があることも知っている。でもその人生が如何に血生臭くて、汚れたもので、決して美しいものではないことかは本質的に理解していない。2人が思うほど五条は正しい善人ではなかった。大して思い出もないだろうけど、君たちの父親を殺したのは僕なんだよ。なんて、それを聞いたら2人はどんな顔をするだろう。
「…どしたの、急に」
「身近な人に感謝を伝えてみようっていう課題がでたの。だから悟くんしかいないなって」
 ありがとう、もう一度そう言って微笑む。息を飲むほどに大人びたその顔に、上手く笑顔を返せた自信はない。大してありもしない良心が、今更になって少しだけ傷んだ。


―――――――


 呪いでありながら随分と人間のようだった。
 どんな経緯で生まれた呪いかなんて興味が無いから細かいことは忘れてしまったが、人の中に潜り込んで身を潜めているうちに人間らしさが生まれて普通の人間のように生活していたのだという。普通に朝起きて幼稚園に行って食事を摂りまた眠る。人に寄生する呪いもいるにはいるが、これは五条でも初めて見るケースだった。きっと同じ幼稚園にいる男の子の腕を折らなければ、わざわざ呪術高専に話はこなかっただろう。それだけ人として生きていた。最初に小さな動物を殺すことから始まって、親は児童相談所や色々なところに助けを求めたが原因は分からず、児童の骨をへし折ったところでやっとこちらに依頼が回ってきた。しかしその頃にはもう元々の少年の自我はすっかり呪霊と同化して消えてしまっていた。大本がその少年であったからか、中身がすり替わっても母親が気付かない程なのだから随分と救いのない奇跡だ。
 流石に母親の目の前でこの子を祓うわけにもいかず、かと言って本当の事を伝えたら自分が殺される瞬間までこの呪いを我が子として育てるかもしれない。中身は呪いとはいえ、見た目はただの子供なのだからどう転んでも後味のよくない仕事だ。時折五条への嫌がらせでこういう仕事を押し付けてくるのだから、上の人間には優しい心というものが足りていない。
「ある程度事情は聞いてると思うけど、この子もう中身はただの呪い…なんていうかまぁ悪霊みたいなもん。」
 けれど祓わないことには話は終わらない。元の少年はもう死んでいるし、成り代わっている呪いは誰かが祓わねばならない。玄関先で子供と共に出迎えてくれた両親にそう伝えれば信じられない気持ちを半分、悲しみを半分湛えた顔で五条を見た。それはそうだ。ほんの少し前まで我が子だと信じていたのだから。
「何も変わってない、じゃないですか」
 母親の声は震えていた。
「外見はね。このまま置いといてもいいけど、そのうちあんたを手に掛けるよ」
「っそ、そんなこと…!」
 五条から守る様に膝をついて少年を抱き締める母親と、その2人を更にまとめて抱きしめる父親。どこか最後を惜しむようにも見えるその姿は美しい愛の形だった。少年の中にいる呪いが、怯えた目で五条を見る。今にも母親の腕を握り潰さんばかりの力で縋り付いている姿を見て、つくづく本当によくできた奇跡だと思う。
「最近ちょっと変だなって思う事ってなかった?例えば握り返してくる力がやけに強いな、とか」
「それ、は」
「物を壊す頻度、高くなかった?手を滑らせてとかじゃなくてさ、ただ遊んでるだけなのに不自然な壊れ方してなかった?」
 五条の言葉に母親の目が少しずつ歪んで涙が滲む。心当たりがあるのか、五条を写していた瞳は床へと落とされてしまう。子供だけが五条を見ていた。思っていたよりも簡単に母親が折れたあたり、きっと五条が来るまでにも不審に思うことは多かったのだろう。呪いよりも人間に苦労するような事案は多々あるが、今日はそうでないようで胸を撫で下ろす。
「お祓いで、この子を戻すことは出来ないんですか」
 涙に濡れた声で父親が言う。元々の少年の魂は完全に呪いの中に取り込まれてしまっていて、もう呪いと少年を切り離すことは出来ない。少年自身の自我もない。既に少年は死んでいるようなものだった。けれど詳細に伝えたところで何も変わらないと、「できないよ」と簡素に言えば抱きしめていた手を離してとうとう母親は声を上げて泣き崩れた。父親も俯いて唇を噛み締めている。流石にこの後殺すのだとは伝えていないが、これが更生したらまた会えるとか、そんな話ではないことを理解しているのだ。
 子供は母親の横で逃げるでもなく悲しそうに立ち尽くしていた。
 わんわんと泣く母親の姿に心が痛まないと言えば嘘になる。五条が来なければ死ぬまでは幸せに過ごせたのだろうから。けれどそれでも呪いは祓うのが仕事で、心のケアまでしてやれるような万能なヒーローでもない。
「後のことはこれから来る人に聞いて。…ほら、君はおいで」
 五条に腕を掴まれても少年の形をした呪いは大人しかった。声を上げるでもなく裸足のまま玄関の外へと出る程に。去り際の母親が伝えた「元気に過ごしてね」に答えるでもなくじっと両親を見つめる姿は、まるで本物の人間のようであった。
「呪いは確保した。僕は離れたところで祓うから、後よろしく」
 子供を腕に抱えながら依頼主の家を出たところで補助監督に連絡をする。そう離れたところにはいない筈だからすぐに母親の元へやって来てくれるだろう。
 軽く地面を一蹴りして宙へと浮かび上がり、町外れにある森林公園へと向かった。平日の朝10時、人の少ない公園の小さな林の中。今更暴れるとは思わないが念の為に小さな帳を張っておいた。
 朝から夜になった林の中で、やっと地面に降ろして子供に問う。単純な好奇心だった。
「なんで同じ組の子に怪我させたの?させなかったらもうちょい長生き出来たかもよ」
 五条の問いに暫くの間があってから、どこか拗ねたように口を尖らせて言った。
「ただ遊びたかっただけ。ぼくは遊んでるだけなのに、勝手にけがするんだ」
「近所の野良猫も?」
「なでてあげたら死んじゃった」
「何でか分かる?」
「……みんな、ぼくより弱いから」
 話し方まで幼い。呪い自身は人の中に入り込めて喋れる程度には自我も知能もあるというのに。人の負の感情から生まれる呪いが何故こうも正しく人間らしく生きようと変異したのか、五条には興味のないことだ。こんな奇跡がまた起こるとは思えないから、謎を解明することも出来やしない。
「独りぼっちか」
 だが、この呪いの首に手をかけた時、とても他人だとは思えなかった。隣に並ぶ誰かが欲しいだけの、可哀想な子供だった。



「今日は飴ちゃんだよ~」
 そう言いながら玄関を開けるが、しかし津美紀の出迎えがなかった。もう恵も津美紀も学校から帰ってきている時間の筈なのに、恵はともかく津美紀が出てこないのは珍しいと思いながら「悟さんだよ~」とそのまま上がり込む。
「…あれ、津美紀は」
「林間合宿」
 居間にも台所にもどこにも津美紀はおらず、子供一人ではだだっ広く感じる居間で恵だけがちゃぶ台に向かっていた。持ってきた飴を机の上に置きながら恵に聞けばそっけなく教えてくれて、そこでやっと今日が林間合宿の日であったと知る。二か月くらい前に訪れた時に1泊2日の林間合宿があると言っていた気がするが、具体的な日にちまでは覚えていなかった。きっと飴なんてスーパーで安売りされているものしか知らないであろう二人の為に、うざぎやら猫やらの形をした飴細工を持ってきてあげたのだけど。
「そういやそんなこと言ってたっけ。今日から?」
「明日の昼すぎに帰ってくる」
「じゃあ今夜は一人なんだ」
 五条の方を見るでもなく恵は黙々と辞典とにらめっこしてはノートに何かを書きこんでいた。よく喋る津美紀がいないとどうにも部屋の中が静かで仕方ない。けれどテレビをつける気にはなれなくて、恵の宿題が終わるまで眺めていることにした。
 初めて会った時に比べたら随分と成長したとはいえ、五条に比べたら小さすぎる手。それが辞典の索引をなぞっては捲って、そしてまた何かをノートに書きこんでいく。きっと言葉の意味を調べてこいだとか、意味を調べてから例文を書いてこいだとかそういった類のものだろう。鉛筆が紙の上を滑るかりかりという音がもう随分と懐かしい気がする。大人になると意外と文字を書く機会というのは減るものだ。
「ねぇ、晩御飯どうするの?」
「しょうが焼き」
「えっ、作れんの?」
 五条の言葉に眉間に皺を寄せた恵は「自分で作らなきゃ食べられない」と言った。ここで初めて恵と目が合う。ちょっと元気がなさそうな瞳と、きゅっと寄せられた眉間の皺。それからどこかつんと尖った唇。それを見て何か言わなきゃと頭が勝手に思って、そして出てきたのは「僕が作ってあげるよ」だった。
 最低でも一か月に一回は顔を見せるようにしているが、最近はその最低限でしかここに来ていなかった。勿論仕事が忙しいのもあったのだけど、ちょっとだけ、雑な扱いをしてしまった。大人なんていなくても子供は子供なりに成長していく。五条がいなくたって宿題は終わるし、いつの間にか一人で生姜焼きだって作れるようになる。それでも、寂しい日は寂しい。姉弟一緒にいても寂しい日はあるのに、一人になったら余計に寂しいに決まっている。五条が来なかったら一人で作って一人で食べることになっていた生姜焼き。きっと味なんてしない。寂しさが味をおかしくさせることを、五条は知っている。
「…忙しいんだろ、無理しなくていい」
「してないよ」
 ゆっくりと宿題に落とされた視線は、けれど宿題なんて見てなかった。何を書くでもなくノートの上を彷徨う鉛筆、1ページも捲られない辞典、静かになる部屋。心臓がきゅう、と音を立てるようだった。
 嬉しいくせに素直じゃない。寂しいのに、寂しかったと言わない。子供のくせに我儘を知らない。俯いた頭を撫でてやれば、やっぱり恵は大人しくされるがままだった。
「…今日は津美紀いないのに、どうしてそこまでしてくれんの」
 ノートの上を彷徨う鉛筆が、不意に意味の無い線を引いた。
「津美紀?津美紀がどうかした?」
「…………俺が、可愛げがないからきたくなくなったのかと、思った、から」
 最近は2人に生活費を渡すくらいでしかここに来ることはなかった。忙しいのは勿論、でもちょっと手を抜いたのも本当。来ようと思えば本当はもう少し来れたし、今日の飴だって本当は手抜きだ。都会の喧騒の中でお菓子を選ぶのが今日は少し疲れてしまって、適当に可愛いものでも買ってやれば喜ぶだろうと思って飴細工を買ってきた。一応浅草にまでは行ったけれど、それでも五条からしたら手抜きだ。それをこの子は自分が原因でここに来なくなったのだと思ってすらいた。自分の将来が担保にされていることは分かっていても、捨てられたばかりの子供だ。自分の意思じゃどうにも出来ずに勝手に捨てられる無力さをよく知っている。
「…そんなわけ、ないじゃん」
 ここでやっと五条は初めて伏黒恵という少年を見た。五条が思っているよりずっと身体は小さくて、触れた髪は思っているよりずっと柔らかかった。


 何故この子に声を掛けたのか。何故面倒な手続きやしがらみその他諸々を片付けてまで引き取ったのか。何故、構ってしまったのか。そんなことはよく考えた。この子の父親からの遺言と血筋がきっかけであったのは確かだけれど、じゃあ何故それ以上に気にかけるようになったのだろう、ということについては考えたことはなかった。ただ引き取って教え子とするだけなら、わざわざ顔を見せる度に菓子を買って行く必要なんてなかったのに。
 宿題をしている恵をそこに置いて狭い台所で晩御飯を作ってあげて、食べ終わったら恵が風呂に入っている間に片付けを済ます。買ってきた飴は明日津美紀が帰ってきてから食べるのだという。そうこうしている間にあっという間に夜は更けて、けれど考えていることは何も答えが見つからないままだった。今にも消えそうな白熱灯が五条と恵しかいない部屋を眩しく照らす。
「帰んないの」
「津美紀帰ってくるまで一緒にいてあげる。明日学校休みでしょ」
 てっきり「子供扱いするな」と拗ねるかと思ったが、意外にも恵は何も言わなかった。
 この家にある布団じゃせまくて仕方ない。足をぎゅうぎゅうに折り畳まないと収まりやしないし、掛け布団の長さだって足りてない。固い畳とぺらぺらの敷布団はきっと今日の疲れを取り除いてはくれないけれど、それでよかった。どうしてだろうか、今日は誰かといたかった。そこに、考えていることの答えがありそうな気がして、でも知りたくないような気もして。
 煌々と部屋を照らす白熱灯の下、布団の上で小さく膝を抱えた恵が何かを言いたそうに口をもごもごと動かした。視線は右に左にあちらこちらへと彷徨って、幼さの残る丸い頬はほんのりと染まる。どこか覚えのある感覚。何か言われるな、と考えるまでもなく分かってしまった。
「…いつも、ありがとうございます」
 恵の言葉で、ここでやっと、自分が如何にこの少年を見てこなかったのか、如何に都合のいい建前を振りかざしていたのかに気付く。あの日差し伸べた救いの手はこの子達への救いの手ではなかった。エゴに塗れた、自分のための救いの手であったのだと。
 緊張か、照れか。意味もなく動かしている両足の親指を見つめながら恵はそう言った。時折ちかちかと揺れる灯りの下、恵の頬が更に染まって続きを口にする。
「五条さんがくると津美紀が嬉しそうな顔するし、美味しいもの食べさせてやれるし、一緒に暮らせるのも、五条さんのおかげだから」
 子供の考えていることなど安直で簡単に分かると思っていたのに、五条は何も気付けていなかったのだ。この子が本当に喜んでいたのは五条が持ってくる菓子にではない。五条が持ってきた菓子を見て喜ぶ姉の姿に、表情を綻ばせていたのだ。そんなことに今更やっと気が付くなんて!
「ストップ、待って恵…急にどうしたの、…それも宿題?」
 こんなことに気付きたくなかったなぁ、などと考える。最後に続きそうだった恵の言葉を遮って五条は必死に口を動かした。去年津美紀も同じような宿題やってたよね、恵も同じの出たんだ、なんて。
 不安定に揺れる白熱灯が今にも死にそうだった。ちかちかと瞬いては最後の足掻きをする。灯りが消えてしまったらこの子達だけじゃ電灯を簡単に取り替えることなんて出来ないのに、五条はそんなことすら知らなかった。
 こくりと恵は頷いた。
「俺には、五条さんしか、言える人いないから」
 この恵という少年は、姉に似てとても優しい子だった。誰かのために表情を綻ばせて、ありがとうを言えて、信用をすることが出来る。その事に初めて罪悪感が湧いた。
 自分はあの呪いとなった子供と同じだ。五条にとっては瞬きの間に殺せる存在でも、あの子にとっての狭い世界の中ではあの子自身は浮き出た存在だった。どんな理由であれ、浮いた存在とは常に孤独だ。隣に並び立つ存在なんていやしない。いても、五条はもう失ってしまった。だから寂しくて、並び立てる可能性のあるものに縋ったのだ。いつの日か恵の持っている血筋は五条を殺すことが出来るようになる。本人にその気がなくても五条はそう出来るようになるまで育て上げるつもりだ。殺されたいわけじゃない。死にたいわけじゃない。ただ、自分と同じくらい死なない存在になってほしいのだ。明日も明後日も1年後も10年後もいてくれる誰かが欲しかった。
 まだこの子は知らない。呪術師という生き方は、呪いであれば自分より小さい子供を手にかけることもあるのだと。早くて来年、遅くても再来年。少しづつ身体が完成されていく小学5年から6年の間から、少しずつこの子は自身が歩む将来の現実を知っていく。
 ぱち、と最期の悲鳴を上げて白熱灯が亡くなった。部屋の中が途端に暗くなって、五条の情けない顔を覆い隠す。こんなこと、知りたくなかった。暗くなった部屋で五条は再び思う。
「……これは恵が好きだから言うんだよ」
 暗闇の中でも五条の好きという言葉に恵の身体が揺れたのが分かった。今日初めて、今更この伏黒恵という1人の少年を見ていて分かってしまった。好きの意味も知らず、好きに種類があることすらよく知らず、こんなどうしようもない大人を好きになってしまったこの子に、自分はどんな顔をすればいい。五条がやってくる度に少しだけきらきらと光る瞳の意味など知らなければよかった。それを愛と呼ぶ以外になんと呼べばいいのか。
「恵、君は優しすぎるから線引きをしろ」
 暗闇に慣れ始めた視界の中、布団の上で小さくなっている恵はじっと五条を見つめていた。僅かな月明かりを吸い込んで輝く瞳が、いつか霞んでしまう日が来るのだろうか。寂しさに負けてこんな世界に恵を巻き込んでしまった五条に気がついてか、それとも大人に近付いて今抱いている気持ちが幼さ故の無知であったと気付いてか。それは分からないけれど。
 それでも、五条は今日殺した子供のように弱いから言うのだ。少しでも永く、この地獄で彼が生きていけるように。生きたくなくても生きれるように。五条の傍から亡くならないように。
「じゃないと君は、耐えられなくなる」
 五条の言葉の意味が分かっているのかいないのか、「…うん」と静かに恵は頷いた。いつか目の前に転がる命の取捨選択を自身の明確な物差しでする。そうしないと優しすぎるこの子は命に耐えられない。こんな人間を愛してしまうような、そんな子には。
「今は分からなくても、いつか意味がわかる日が来るよ。…成長して、今の気持ちを忘れた頃に」
 少しだけ震えた声に、五条も恵も気付かなければいい。
 この声の震えが、目の前にいる伏黒恵という少年を愛してしまった証拠に他ならないのだから。


 寝れるわけがないよな、明るくなってきた窓の外を眺めて思う。遠くの空が白んでいくのを見ながら、昨晩のやり取りを思い出す。夕食を食べながら、初めて何か食べたいものはないのかと聞いた。すると恵は少し悩んだ後にテレビで見たマカロンがいいと言った。恵の口から出るには随分と可愛らしい名前に、何でと聞いてみたら「津美紀が食べたがっていたから」と言ったのだった。

畳む


読後に
マドレーヌ:円満な関係
キャンディ:あなたが好き、長く続く関係でいたい
マカロン:あなたは特別な存在
畳む

小説 編集

忘れ形見
2020年に書いたから色々情報に齟齬があると思う

「じゃ、夏休み5日間空けといてね」
 唐突に伏黒の住むアパートにやって来るなりそう告げた五条は、伏黒の返事を待たずに言うだけ言ってさっさと帰ろうとした。夏休みが始まるまであと少し。いつから5日間なのか、何をする気なのか、今度はどこに連れていかれるのか。予定を開けろと言われた5日間の内容がさっぱり分からない。中身によっては断りたい伏黒の気持ちなど初めから考えていないのだろう。本当に断れるかは別として、形式的にでももっと詳細を言えと伏黒は今すぐにでも玄関扉を開けそうな五条を引き止めた。
「もっと他に言うことあるでしょう」
「……今日も可愛いね?」
「可愛くないし、そうじゃなくていつからどこで何するんですか」
 中途半端にドアノブに掛けられた手を離そうともしないで、五条は形ばかり考える素振りをした。わざとらしくドアノブを掴んでいない方の手を顎に持ってくる姿は、何も考えていない時か適当な嘘を言う時だ。この場合は何も考えていないから今考えている、そんなところだろう。
「夏休みいつから?7月末だっけ?」
「…そんなところです」
「じゃあ8月1日。1日から5日間空けといてね。…あ、着替え含めて持ち物何もいらないから」
 作りも古いこの部屋のドアは規格外の大きさを持つ人間には対応していない。ドアノブを捻り、開け放たれたドアから少しだけ腰を曲げて五条は出て行った。
 1人きりになって少しだけ広くなった筈なのに、しかし小学生の記憶に比べれば随分と小さく感じるこの部屋。大きくなった身体の分だけ窮屈になって、1人減った分だけ隙間が広がった部屋。網戸から吹き込む風がカーテンを揺らしながら遠くの蝉の鳴き声を連れてくる。もうとっくに行く場所の決まっている伏黒には受験勉強などというものは関係なかった。そういう意味では他の同級生に比べれば随分と落ち着いた夏だ。わざわざ休みの日に顔を合わせるような友人もいない。一緒に過ごす家族も今はいない。
 中学3年生の夏。姉のいない、初めての1人きりの夏が始まろうとしていた。


______

 ここ数ヶ月、元々浅い方だった眠りが更に浅くなった。日付が変わった頃に布団に潜り、そこからうとうとと眠っているのかいないのか分からない浅瀬を漂う。少しの物音で直ぐに覚醒しては、枕元にある携帯電話が静かなことに落胆する。それを繰り返しているうちにやってきた朝日がカーテンの向こうにある空を少しだけ明るくして、新聞配達員のバイクの音と誰かの家のポストに新聞を投げ入れる音が早朝に響く。少しもすっきりしない眠りだ。眠りとも呼べない。それが数ヶ月続いている。
 古びて寿命の近い扇風機しかない部屋でただ目を閉じるだけの夜。夏休みに入っても何も変わらない。姉が目覚めたという連絡を待って浅くなる眠り、部屋の隅では呼んでもないのに伏黒だけの式神だという2匹の犬がどこか心配するようにじっとこちらを見ている気がした。
 今日は8月1日。行くとも行かないとも返事をしないまま迎えた今日は、結局何時に出発するのかどこに向かうのか、そもそも現地集合なのか迎えに来るのかも分からないままだった。今日を迎えるまでに半月ほど日はあったが、伏黒から聞くこともなかったし五条から何か言ってくることもなかった。聞いたところでまともな返事が帰ってくるとは思わなかったが、そもそも興味がなかったのだ。一応伏黒の家に五条が訪れた最初の1回は概要を聞きはしたが、本当はあの場で勝手に連れ去っても構わなかった。自棄だと言われてしまえばそれまでだが。
 遠くでバイクのエンジン音がした。もう朝がやってきたのだ。ゆっくりと目を開ければカーテンをすり抜けた朝日が天井を明るくしていた。枕元にある携帯電話は、変わらずなんの知らせも伏黒に寄越してはくれない。小さく嘆息して布団から起き上がる。欠伸すら出てきやしない。使い古して限界まで薄くなった布団をおざなりに畳んで、部屋の隅に寄せてからシンクで朝の支度をすることにした。
 姉が何かに呪われて数ヶ月。幼稚園で読み聞かされた眠り姫のように穏やかに眠る姉は、春が終わったことを知らない。揺すっても叩いても起きない姉の症状を呪いだと診断したのは五条だ。いつもならとっくに起き出す時間になっても目覚めない姉に、伏黒が咄嗟に頼った大人は119番の救急車でも、アパートの管理人でもなく五条だった。伏黒にとって1番身近で1番物事をよく知っている大人がこれは呪いだと言い、けれど原因も分からなければ解く方法も分からないとも言う。目の前が真っ暗になる、という経験は初めてだった。ある日忽然と両親が姿を消したって、親に捨てられた子だと同級生から後ろ指を指されたって平気だったのに。
 水道を閉め、適当に身支度を終えた伏黒はまだ日が登りきっていない部屋を眺めた。小学校に上がったばかりの頃は2人になって随分と広くなってしまったと思ったこの部屋は、中学生にもなれば2人いれば狭いと感じるようになった。そこに五条が押しかけてくれば尚のこと。けれど今は姉は呪術高専と濃い繋がりがあるという病院で穏やかに眠っているから1人きりだ。五条が来たってこの隙間は埋まらない。
 小さく息をついてから伏黒はいつ来るかも分からない五条を待ちながらどこに行くのかも分からない旅行の準備を始めた。といっても荷物は何もいらないと言っていたから着替えて携帯電話の充電をしておくくらいだが。きっと五条のことだ、財布も持ってこなくていいと言うだろう。五条が伏黒と姉を連れてどこかへ出かける時はいつだってそうだった。
「早起きじゃん」
「…いつくるか分からないからですよ」
 準備と言えるのかも分からない準備を終えて、ぼんやりと窓から早朝の空を眺めていればチャイムも押さずに五条がやってきた。最初の頃はチャイムを鳴らしていた気がするけれど、気が付けば勝手に合鍵を作って勝手に開けるようになったのだ。
 窓から視線を外して玄関へと向ければ、丁度首から上がドア枠からはみ出して顔が見えない五条が外に立っていた。狭いこの部屋は玄関を開けるだけで外から丸見えだ。
「行く準備できてる?」
「はい」
「じゃ行こっか」
 財布もいらないよ。相変わらず顔が見えないままの五条はそう付け足した。彼もまた、5日間の旅行に行くには不釣り合いなショルダーバッグ一つしか下げていない。
今日は本当に休みなのだろう。首から下は見慣れた黒づくめではなかった。

____

 早朝と言えども夏の真っただ中となれば澄んだ空気と湿気が混ざり合っている。だらだらと歩いているだけでぬるい湿気がまとわりついてくるのを鬱陶しいと思いながら五条について行けば、向かう先は駅だった。まだ通勤時間には早い時間。改札周辺は人もまばらで閑散としていた。
「はい、これ恵のね。いっぱい入ってるから足りなくなることはないと思うけど」
「どこ行くんですか」
 改札を通る前に五条から交通費の入っているのであろうICカードを渡された。それを受け取りながら問えば五条はうーん、と唸ってから顎に手を当てた。五条の横顔を見上げていればサングラスの隙間からちらりとこちらを見た瞳と真っ直ぐかち合う。真っ青な空と、五条の瞳の色はよく似ている。
「さぁ?夏だし海の見えるところがいいかな」
「…さぁ?」
「だってこれ、ぶらり旅だから」
 楽し気に瞳を細めた五条はそう言って伏黒に渡したのとは別のICカードでもって改札を抜けた。ぴ、と軽い音がして五条と伏黒を別つ。
 どこに行くのかも決まっていないような、旅行と呼んでもいいかすら怪しい旅行。もう五条は改札の向こうへと行ってしまったのだから行かないと言い放って自分だけ帰ってもよかったのだけど、そう言わずに同じように改札を抜けてしまったのは、たぶんもう考えることに疲れていたからだ。寝不足のどこかぼんやりした頭では姉のことだけで頭のキャパシティはいっぱいで、それ以上の出来事の意味なんて考えてなどいられなかった。
「適当に海が見えそうな方に乗ってこうか」
「本当にノープランなんですね」
「まぁね」
 五条が気ままに向かったホームはやはり人も少なく静まり返っていた。電光案内板ではあと五分程で電車が来るとあったが、出掛けるのに殆ど手ぶらの状態は何となく落ち着かなくて、足元の乗車位置の案内を見る。ジーパンのポケットに雑に突っ込んだ携帯電話はうんともすんとも言わず黙りこんだままで、その事に僅かばかり罪悪感が浮かぶ。もしもこの5日間のどこかで目が覚めた時、なんと説明しよう。電話の向こうで人が寝ていたのに遊び呆けていたことを呆れられるだろうか、次は自分も行きたいなと笑うだろうか。恐らく後者だが、罪悪感は前者を押し付けてくる。
 やがてホームに電車が滑り込んできて、どこまで乗るとかどこに向かう電車なのかもお互い話すことなく開いた扉から乗り込めば案の定車内に人は殆どいなかった。せいぜい別の車両に数人いる程度で、五条と伏黒が乗り込んだ車両には誰もいない。人のいない静かな車内でわざわざ真ん中に座った五条の左隣に腰掛けるとおもむろに右手を差し出された。
「ケータイ、回収ね」
「……なんでですか」
「デートなのにケータイばっか気にされたら妬けちゃうから」
「…だからって」
「病院から連絡あったらすぐ恵に返すよ」
 有無を言わせない圧と伏黒が渋る理由を取り上げられては従うしかなかった。病院から津美紀に関する連絡を待つ以外に携帯電話を必要とする理由もないのだから。
 「何かあったら、お願いしますよ」そう言い加えながら唯一の荷物だった携帯電話を五条に渡す。
 本当に身一つになって、どこか身体が軽くなったような気がしたと思ったら勝手に欠伸がこぼれた。早朝の電車内に人影はなく、窓を規則的に流れる代わり映えのしない景色もまた眠気を誘う。こんなに眠いと思ったのは久しぶりだった。
「降りる時起こすから寝な」
 口ばかりが軽くてよく回る五条が、本当はそこまで軽薄ではないことを知っている。起こすと言えば起こしてくれるし、伏黒の携帯電話に何かあればすぐに返してくれるだろうことも知っている。
 容赦なく重さを増していく瞼に従って目を閉じれば、意識はあっという間に沈んでいった。右頬に五条の身体が触れる感覚がした気がしたが、それを気にする暇もなかった。


「起きて」
 その言葉と共に肩を揺すられて目を覚ませば、車内には人が増え始めていた。伏黒の隣にも夏休みシーズンだからか学生の集団が座っていた。霞む目を軽くこすりながら五条に凭れかかっていた身体を起こす。
「…どこですか、ここ」
 間もなく停車するというアナウンスにつられて扉の上にある電光板を見れば知らない駅の名前があった。続けて流れるアナウンスでここが終点だと知る。
「どこだろ。ほら、次の電車乗るよ」
 やがて停車して開いたドアから五条に連れられて降り、ホームにあった時計を見れば出発が早かったのもあってまだ朝の8時半頃だった。どこに向かうかも決めてないと言っていたから、ここで降りたのもただ終点だからというだけなのかもしれない。ぐるりとホームを見渡した五条は案内板を見て「じゃあこっち」と歩き出した。
「朝食べてないでしょ?」
「そうですね」
「お腹すいた?」
「…どうでしょう」
 言われてみれば空腹な気はするけれど、それを感じるのも久しぶりな気がしてどこか自信がない。無気力、それとも虚無感。なんと呼べばいいのか分からないが何もかもが億劫で仕方ないのだ。終点まで眠った頭は多少すっきりしてはいるのだけど。
 じゃあ適当にどっかで食べようか。揶揄うのでもなくそう言った五条の言葉が存外優しくて、泣きたくなる。けれどその理由を考えられるほどまだ伏黒の頭にも心にも隙間なんてものはなかった。
 どこだか分からない駅の知らない改札を抜ければ当然そこには知らない街並みがある。伏黒が住んでいた町も寂れて廃れてはいたが、乗り込んだ電車は更に寂れた方へと進んだようで、見える風景にはコンビニの姿もなかった。
「な~んもないね」
「調べないんですか。携帯で」
「電源切ってるから調べないよ」
「なんで電源を?」
「めっちゃ連絡くるから」
 言葉を交わしながらあてもなく寂れた街を歩く。コンビニもなければファストフード店もない。人の姿もそれほど多くはない。そして、海も見えやしない。
 この人が呪術師の世界で類を見ない程強くて必要とされていることは知っている。この界隈に真っ当な労働基準なんてものがあるとは思えないが、そんな人が5日分も休みを取ることは大変なのだろうと予想もつく。長い付き合いの中で急な呼び出しがあったことも少なくない。だからといって伏黒と過ごすために5日間もそれを遮断してしまうことが良いこととは当然思えないけれど。
「でも調べないで海に行けるんですか」
「そこは僕の運の見せ所ってやつ?あ、ここでいっか」
「そうですね」
 空調の効いた車内を抜けて陽射しが照り始めた町へと繰り出せばあっという間に汗が背中を伝う。じりじりと肌を焼く熱光線から逃げるように、視界に入った古めかしい喫茶店へと向かった。駅からそれほど距離がある訳でもないのに頬を汗が一筋流れていく。真夏は朝でも暑い。そんな中で適当な方向に適当に歩いただけで喫茶店を見つけられたということは、五条の運というのも案外悪くは無いのかもしれない、なんて。
 ドアベルの音色に出迎えてもらいながら店内へと足を踏み入れれば、外よりは多少冷えている程度の空気が身体の表面を流れる。朝だから空調がきいていないのか、元からこんなものなのかは分からない。しかし肌を焼く日差しが無いだけで十分だった。
 カウンターの隅で新聞を眺めていた初老の店主はちらりと伏黒達を見てからぶっきらぼうに空いてる席へ、とだけ言って再び視線を新聞へと戻した。地元の人間しか来ないような、何も気取っていない店内は酷くシンプルだった。ぽつぽつと置かれた人工の観葉植物と年季の入った木製のテーブルに椅子、天井ではどこか場違いなシーリングファンが回っていて、控えめに流れるラジオからは知らないJ-POPが流れていた。
 誰もいない店内。特に深い理由もなく奥まったテーブル席へと腰掛ければ、隅のメニュー立てにラミネート1枚の簡素なメニューが置かれていた。
「何にする?僕はとりあえずパンケーキとカフェオレ」
「朝から重くないですか」
「お腹すいてるし」
 それはいまいち答えになってないと思うが、それ以上の返答は避けて「サンドイッチと珈琲で」と伝えた。五条が席から少しだけ身を乗り出して店主を呼んでオーダーを伝えれば、ついでに水の入ったグラスを置いた店主は入ってきた時と同様にぶっきらぼうな返事でもってカウンターへと戻っていく。
 頼んだものが届くまでの隙間の時間、垣間見たこの街の景色を思い出す。人もいなくて、寂れて廃れて、きっともう変わることの無い街。まさしく終点に相応しい街だった。
「……ここで適当に宿探すんでもいいんじゃないですか」
 どこからか控えめに流れるラジオではもう次の曲が流れ始めていた。やはりこれも、伏黒の知らない曲だ。
 やっと空腹を感じ始めた腹の虫が今になって小さく鳴く。
「海ないじゃん」
「そうですけど、…行き当たりばったりで、ずっと海に着けなかったらどうするんですか」
「着くまで電車乗り継ぐだけだよ」
「真逆に向かってても分からないのに」
「駅員に訊けばいいじゃん」
「…………それでも、分からなかったら、」
 眠ったきり、夢の中で時間を浪費し続ける姉の姿が頭を過ぎる。閉じた瞼の向こうで夢を見ているのか、それともただ意識もなく暗闇の中を漂っているのかは分からないが終わりの見えない世界にいることに違いはなかった。終わりが、分からないのだ。見つかるとも限らない。
 結露がグラスを伝い、テーブルに綺麗に丸い輪の形をした水溜まりを作る。
「どうにかなるよ」
 サングラス越しに、五条の目が伏黒をまっすぐ映していた。この会話は海に行けるかどうかというものの筈だが、五条はそこに滲む伏黒の言葉の意味を見透かしているようだった。それから逃れる様に五条から視線を外す。
 グラスの中の氷が少しずつ小さくなっていく。
「お、なかなか美味しそう」
 やがて運ばれてきたパンケーキに一緒に運ばれてきたメープルシロップをあるだけかけた五条の目はもう伏黒を射貫いてはいなかった。それにどこかほっとしたような、寂しさを感じるような。
「…頂きます」
 子供にだって作れそうなサンドイッチは、一口食べれば田舎の寂れたカフェらしいそれなりの味がした。



 電車を乗り継ぎ、それに飽きたら今度は路線バスを乗り継ぎ、小腹が空けばコンビニでアイスを買った。一度も道を調べることなく、路線図を見ることもせず、行き当たりばったりで突き進んで陽が傾き始めた頃。名前も知らない街で乗ったバスの窓の向こうには海が広がっていた。宿があるのか些か不安ではあるが、斜めになった陽が海を照らしてなかなか悪くはなかった。
「本当に海、ありましたね」
「ほら、どうにかなった」
 夏休みの真っ最中だというのにバスの中に人は殆どいない。いても買い物や仕事帰りの主婦やサラリーマンばかりで、旅行者らしいのは伏黒と五条くらいだった。といっても旅行らしい荷物を持っているわけでもないから傍から見れば旅行者には映っていないかもしれないが。
 車内アナウンスが流れて、それを最後まで聞かずに誰かが停車ボタンを押した。
「次で降りよっか」
「はい」
 車窓から見える海が一旦遠ざかり街中へと進んでいく。朝食を食べた街に比べれば人通りも僅かながらコンビニも見えるということは多少は活気のある街なのだろう。細々とした、僅かばかりの漁業でどうにか生きている街なのかもしれない。
 随分と遠くまで来た。早朝だった筈の空がもう夕暮れ近くになっている。五条と伏黒のことを知っている人間はどこにもいない、遠い遠い場所だ。
 ほどなくして停車したバスから降りれば、住宅地のようで海は見えなくなっていた。しかし僅かに磯の匂いがしてちゃんと海があるのだと教えてくれる。
「もう一個前のバス停で降りればよかった」
「どう見てもここに宿はなさそうですからね」
「海の方に向かいながら探そっか」
「逆のバス乗ればよくないですか」
「それじゃあつまらないじゃない。旅は自分の足で歩いてこそだよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだよ」
 乗ってきた道を戻りながら宿を探すが、もしも見つからなかったらどうしようなんて気持ちは湧いてこなかった。海に行くと言って本当に海のある街に辿りつけたのだ。五条ほどではないが、ここでもきっとどうにかなる。そんな気持ちがしてくる。
 一度陽が傾けば暗くなるまではあっという間だ。暗くなっていく街を歩く部外者である自分たちを気にする者はどこにもいない。ここには五条と伏黒しかいない。相変わらず殆ど手ぶらのまま、身体の横で揺らしていた手を不意に掬い上げられた。自分のものより大きい手を振りほどこうなんて気はここではしないけれど、そう思ったとしても解けないような強さだった。
 少しずつ少しずつ、潮の匂いが増してきて民家も減っていく。明日は何をしようか、この街を歩き回ろうか、名産とかあるのだろうか、何が食べたい、そんな話をしながら繋いだ手を揺らして歩けば、既に今日の営業を終えた店の並ぶ通りに小さな旅館の看板が見えた。どこも暗い通りの中で一つだけ灯りの灯されたそこは目立つ。
 当然、自然と足はそこへ向かった。そこは民家を人が泊まれるように改修したような、まさしく個人でこじんまり細々と経営しているような宿屋だった。中に入った時には入口に人はおらず、カウンター的なものもない。けれど五条が人気のない廊下の奥に向かって声をかければ、女将らしき50半ば程の女性が奥からやってきた。繋いでいた手はどちらからともなく離された。
「今日泊まりたいんだけど、泊まれる?」
「ええ。お部屋は御一緒で?」
「うん」
 五条が彼女と話を進めていくのをぼんやりと聞きながら、ネットにも旅行雑誌にも穴場としてすら掲載されていないだろうこの宿を見渡す。ここで、これから数日過ごすのか。そんな当たり前のことを考える。引くほど金がかかるような旅館でもない、温泉があるでも露天風呂があるでもない、あちらこちらに観光地があるような派手な土地でもない、それどころか7時を回ればどこもさっさと店仕舞いしてしまうくらいには訪れる人の少ない海辺の街。
「素泊まりにしたからさ、コンビニで何か買ってこようよ。お腹すいてる?」
 話はついたのだろう、伏黒に向き直った五条が聞いてくる。小さい街の小さい建物に、五条は馴染まなくて少しおかしかった。
「…そうですね、お腹すきました」
 ここはきっと、次に訪れることはもうない街だった。


_____


「………嘘だろ」
 窓の外にある太陽はすっかり昇りきっていて、外から聞こえるのは雀の鳴き声ではなかった。クーラーが効いているから暑くはないが、朝の爽やかさなんてものもない。目が覚めたばかりの伏黒にも分かるほど、真昼間だった。慌てて起き起き上がれば、とっくに起きていたのだろう五条がへらりと笑って「おそよう」と言った。
 広くはないこの部屋は、寝る時にテーブルを端に寄せてから押し入れから布団を出さなくてはいけない。だから昨夜は適当にコンビニで買ってきたものを食べた後にシャワーを浴びてからそうして寝支度を整えて寝た。いつぶりか、ぐっすりと寝た頭はちゃんと昨夜の記憶を掘り起こして今の状況を正しく教えてくれる。
「っ、起こしてくださいよ!」
「だって起こすの可哀想だったから」
 テーブルと小さな冷蔵庫にその他必要最低限の物しかない部屋で自分の布団だけはしっかり畳んで隅に寄せていた五条は、悪びれることなくそう言っていつの間に買ったのか紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいた。伏黒が寝ている間に外にでも出たのだろう。だったら尚のこと起こせばいいものを。寝る前に明日はこの辺りを探索しようと言っていたのは誰だったか。
「…もう昼ですよ。出掛けるにも中途半端だ」
「でも、元気になってきたからよかったじゃん。顔色もいいし、最近寝れてなかったんでしょ」
「……それは…」
 そうだけど、とは言えなかった。言ってしまえばまるで自分が弱い人間であることを認めてしまう気がして、みっともない気がして、情けない気がして。両親がいなくなってもなんてこと無かったくせに。
 だが、そんなものは五条の前で隠すだけ無駄なのだろう。本当は家を連れ出されて早朝の電車に乗った時から気付いていた。津美紀が眠りこけてしまってから平静を装っているつもりで中身が徐々に崩れていく伏黒を気にしての旅行だということは。それでも素直に認めるにはまだ、その弱くて情けない自分が邪魔をした。
「まぁいいよ。寝起きにしては元気十分」
 寝癖のついているだろう伏黒の髪を五条が摘んだ。そのまま軽く引っ張られても、それを振り払おうなんて気にはならなかった。無気力だとか、面倒だとか、そんなものじゃない。甘やかされている。その事実に絆されているのだ。



 やはり伏黒が寝ている間に少し近くを散策したらしく、身支度を整えるなり連れ出されたのは宿からすぐ近くにある大衆食堂だった。昼時ということもあり、店内は半分ほど埋まっており少し活気が感じられる。泊まった宿にもここにも旅行者らしき人の姿は見えなかったけれど。
「おじちゃーん、連れてきたよ」
「お、朝言ってた連れか!適当に空いてる席に座りな」
 五条が厨房に向かってそう声をかけると、気の良さそうな店長と思しき人がにかりと歯を見せて笑った。底抜けに明るそうな、夏のためにいるような、日に焼けた肌が良く似合う人だった。朝方にここへやってきた五条が彼とどんな話をしたのかは知らない。だが、席につくなり2人がにこやかに話している様子からしてそう悪いことは言っていないのだろう。その会話の中で勝手に海鮮丼を2つ頼まれたことに関しては、形だけでも何を食べるか聞けと言ってやりたかったが。
「おじちゃんが言うには海鮮丼がオススメだって」
「もう食べたのかと思いました」
「まさか。恵が起きてから一緒に食べようと思ってたから、オススメだけ聞いてた」
「でも一応何食べるかくらいは聞いてくださいよ。海鮮丼食いたくなかったらどうすんですか」
「食べたくなかった?」
「…そういう訳じゃ、ないけど」
「ならいいじゃん」
 息が零れるように笑った五条が、眩しかった。真昼の日差しが窓から差し込んで、白い髪を透かす。サングラスに隠されていなければ、きっと真っ青な瞳だってきらきらしていただろう。彼は伏黒が思っているより、夏が似合う人だった。
「この旅行、」
「ん?」
 ここに辿り着くまでにあちこちで下車しては次へと乗り継いでいった。お互い何を言うでもなく何となく人の少ない、寂れた方へと向かっているのは分かっていた。電車からもバスからも人が減っていって、若者の姿も減っていく。コンビニの数も減り、あるのは個人で細々とやっているような店ばかり。娯楽らしい娯楽も見当たらない。そういう終わりが見える街を通り過ぎてここに来た。きっと駆け落ちをするような人達はこういう道のりを辿るのだろう。
「津美紀には言いたくないですね」
 けれどこれは駆け落ちではない。8月のたった5日間。たった5日間だけ全ての連絡を絶って遠出しただけだ。駆け落ちでもなんでもない。連絡を絶ったところで伏黒には心配してくれるような人などいないのだ。数少ない心配してくれる人は目の前にいるし、もう1人は病院のベッドの上だ。狭い世界の、狭い傷心旅行。津美紀がいつかこの2人だけの旅行の存在を知った時、きっと私も行きたかったなんて言うだろう。だがこの旅の目的を知ってしまえば今度は怒るに違いなかった。ごめんなんて謝って、それから自分自身に怒るのだ。姉はそういう優しい人だ。だからこそ、ここで過ごした数日は誰にも言わず誰にも知られず伏黒と五条の中だけで完結させたかった。
「大丈夫だよ」
 この街に辿り着く前、見つけた古着屋で何着か服を買った。旅行のくせにほぼ手ぶらで飛び出したのだから必要なものは全て現地調達なのだ。だから今着ているのも名前も忘れた古着屋で買ったもので、最初に着ていたものは服を買った時に入れてもらった袋にまとめられている。伏黒が寝ている間にどうやらコインランドリーも見つけたようで、ここで遅めの昼食を終えたらそこに向かうのだという。ぎゅうぎゅうに詰められた袋が五条の足元に傾きながら立っている。
「はいよ、ちょっとマグロおまけしといたよ」
「おじちゃんありがとー!」
「ありがとうございます」
「旅行者なんて珍しいからね」
 元がどのくらいの量なのかは知らないが、山と盛られた丼に礼を伝えれば大きく笑って「なんも無い街だけど楽しんで!」と告げて厨房へと戻っていった。
 起き抜けにこれは重たくないか、と思うがたっぷりと眠った身体はしっかりと空腹を訴えている。何も知らない土地、知らない天井、知らない部屋の匂い、知らない空気、知らない波の音。ここにある全ては津美紀の存在しないものだ。津美紀を思い出す要素のない、その全てに少しずつ伏黒の心に隙間が出来てゆくのを感じる。ずっと考えて、張り詰めて、そして見るもの全てに思い出があって焦りを生み出していく。そんなあの場所から離れることで少しだけ気持ちが楽になった、だなんて津美紀が起きても言わないだろう。言えるわけが無い。
 2人でいただきますと手を合わせて食べた海鮮丼は美味しかった。



 堪えきれず笑えば五条は笑い事じゃない!とむくれてみせた。
 それは伏黒が生まれる前からありそうなコインランドリーでひとまず洗濯を終えて、乾燥機に入れている間のことだった。甘いものが食べたいと言い出した五条に、遅い昼食を食べてからそう時間も開いていないから1人でなんか買ってくればいいと言えば嫌だと言う。そんな、結局伏黒が折れることになると分かりきっている押し問答をどこか楽しいと思いながら続けていたら、入口の自動ドアの隙間から白い紙のような何かが入り込んできたのだ。音もなく隙間から入り込んだそれは、鳩の形をしてふわふわと漂いながら五条の方へと向かう。それを見た時の五条の顔と言ったら。
「たった2日、僕がいないだけでどうにかなる世界なら勝手になっとけよ」
 そう言って、たまたま見つけた駄菓子屋で買ったモナカアイスを五条は大きく齧った。
 五条の前に現れた誰かの術式による紙製の鳩は、目の前に来た瞬間ただの紙になり五条の膝の上に落ちた。そこには五条に連れられて高専に行った時に顔を合わせた学長の名前があり、そしてシンプルに携帯に出ろとあった。この人が普段どんな任務をこなしているのか、話に聞いていても具体的なことはまだ想像でしか考えられない。だが話を聞いている限り人手はどう考えても足りていないだろうし、きっと五条にしかこなせない様なものも多々あるのだろう。そうでもなかったら携帯電話が繋がらないからといってわざわざこんな方法を使ってまで連絡させようとなんてしない。
 やっぱり、5日間も連絡を遮断するのは良いことではなかったのだ。だからといって五条を咎めたりはしないが。
「仕方ないでしょう。仕事なんだから」
「ちゃんと仕事片付けてもぎ取った休みなんだけど?労基に訴えてやろうかな」
「どう見てもまともな労働基準なんてないでしょ」
 乾燥を終えた洗濯物の入った袋を持ちながら、急遽日程が大幅に縮んでしまったのを理由に海へと向かっていた。どうやら今日はこのまま携帯電話は電源を落としたままにするらしく、明日起きた時に連絡を取るらしい。わざわざこんな手間をかけてまで連絡を寄越してきた相手にそれは如何なものかと思うが、これも伏黒は咎めようとは思わなかった。何だかんだで、伏黒もこの旅行を楽しみ始めているのだ。
 夕方に片足を突っ込んだ時間。太陽はもう傾き出しているがまだまだ暑い。じりじりと肌を焼く太陽光線と湿った空気に汗が滲む。額から流れた汗が頬を伝い、シャツに染み込んだ。身体のうちに熱が篭っていくのが分かって、こんなことなら先程の駄菓子屋で自分もアイスを買ってもらえばよかったと僅かに後悔する。海からの帰り、向かっている道中に売ってそうな店があればそこでもいい、後で買ってもらおうと思う。
「そういえば名産的なものは聞かなかったんですか。さっきの海鮮丼の所で」
「一応聞いたんだけどねー、魚が美味いくらいしかないってさ」
「じゃあ土地ならではのスイーツ的なものは」
「ないって」
「観光出来そうな歴史的な建物とかは」
「特には」
「てことは、海見たらほぼ終わりですかね」
 ちらりと見上げれば、同じようにこちらを見ていた五条と目が合う。夏の一日は長い。けれどここではその時間を持て余す。だがそれが、今の伏黒にはちょうど良かった。
「…結構楽しそうな顔してるじゃん」
「こういうのは楽しんだもの勝ちでしょう」


____

 人のいない海は、どれだけ2人で居座っていようが何も言われない。見ている人間もいない。たぶん、キスのひとつくらいしても誰にも見られなかっただろう。
 波打ち際に足跡を並べながら繋いでいた五条の手は、少しだけ冷たかった。
「五条さん」
 寝るにはまだ早い時間。けれどお互い風呂も済ませて布団も敷いてしまって時間だけが余った。少しだけ海から離れているここは波の音などしないが、そんな贅沢なんて言える街じゃない。窓から差し込む月明かりがひどく綺麗だった。都会より、伏黒が住む家より、ずっと灯りの少ないここは夜の光がよく通る。きっと部屋の電気も消したらもっとそれは映えるだろう。
「なに?」
「明日、何時に出るんですか」
「どうしよっかな。起きた時に考えればよくない?」
「大丈夫なんですか」
「今すぐ僕が必要なら携帯に出ろ、じゃなくて高専に帰れって言われてるか直接場所伝えられてるよ」
 そういうものなのか、と思うが五条が言うならそうなのだろう。五条がとても存在価値がある人間なのは分かっている。いないと困る人間なのも知っている。だが、少なくとも今日だけは世界を好き勝手出来る最強の術師などではないのだ。宛てもなくこの街に流れ着いた、駆け落ちの成り損ないをしているただの男だった。
「じゃあ抱いてください」
「…なんで?」
 サングラスをしていない五条の目が、僅かに細められた。伏黒の意図を探るような、それとも見透かしているような。その視線から逃げることなく合わせたまま、手探りで天井からぶら下がっている紐を引いて煌々とついていた電気を消した。
 常夜灯すら消された部屋で、月明かりだけが照明となって五条と伏黒を照らす。
 なんで、なんでってそんなの。苦しい現実を忘れたいからだ。ここで犯した罪は全てここに捨てゆくからだ。ここに辿り着くまでの道のりは全てここで完結するからだ。何も知らずに眠っている彼女を忘れて、少しだけ、本当に少しだけ楽になってしまったことなんて墓にも持っていけやしない。
「付き合ってるのに、まだ手を出してこないから」
 伏黒の言葉に、小さく笑った五条は同じように小さな声で「へたくそ」と言った。その意味を理解する前に伸びてきた手が、伏黒の頬をなぞる。明確な意図を持った触れ方に、思わず肩が強ばる。
「明日、海に全部捨てようね」
 その手は頬から首へと流れ、鎖骨の窪みをひと撫でしてから心臓の辺りで止まった。言い出したのは自分なのに、緊張でいやに忙しなく心臓が騒いでいることがばれてしまう。それがどんなに気恥しかろうが、しかし五条の視線から逃れるなんて出来やしなかった。目を離すことが出来なかった。
「ここまでの道のりも、この宿の名前も、海鮮丼の味も、駄菓子屋のおばあちゃんの顔も、」
 ぐるぐると回るコインランドリー、ほとんど人のいない海、その帰りに買ってもらったバニラ味の市販でよく売られている棒アイス、通りすがりに珍しい旅行者だからと声をかけてくれた人。何も無いと言っていたわりにはよく思い出が流れた。
 同じところを何度も回る洗濯物。日常は繰り返す。いつ目が覚めるともしれない姉を待つ日々は帰ってくる。数ヶ月前の日常が戻ってくるのは、回る洗濯物がそこから抜け出すのは、いつになるか分からないけれど。
「全部捨てて、置いて行くんだよ」
 五条の布団の枕元、そこに置かれたバッグの中にある伏黒の携帯は結局この日も鳴ることはなかった。たぶん、明日も鳴らない。
「でも寝れない日だけ、この夜だけ、思い出して」
 月の光を吸い込んで、きらきらと光る五条の目が伏黒を射抜く。食べられるとはこの事か、とどこか他人事のように考えていれば心臓の上で止まっていた手が伏黒をそっと押す。背中に布団を感じながら、五条越しに見えた天井は当たり前だが知らない天井だった。


_____

 この日も目を覚ましたのはすっかり太陽が登り切った昼間だった。窓からは燦々と太陽が部屋を照らし熱も運ぶ。また勿体ない時間の使い方をした、と思うが今日は昨日と違って伏黒だけが寝過ごしたのではない。2人揃ってこの時間まで寝過したのだ。先に伏黒が目覚めて、少ししてから五条も目覚めて、それから昨夜のことを思い出して気まずい顔をした伏黒を見て五条が笑う。時間は昼だがいい朝だった。
 しかし現実はやってくるもので、だらだらと身支度を整えてあとはここを出るだけという段階になってようやっと電源を落とし続けていた携帯電話を起動してみれば、夥しい量の着信履歴が表示された。なるほど、これは確かに手間をかけてまで五条に連絡してくるはずだと納得してしまう程に。
「うわキモ」
「本当に休み取ってきたんですか」
「ちゃんと取ったって!凄い頑張った!」
「本当に?」
 想像以上の着信に疑いの目を向ければ五条は本当だって!と叫んでからもう一度電源を落とそうとした。
「こら、駄目でしょ」
「絶対怒られる。超めんどくさい」
「諦めてください。大人なんだから」
 あーやだやだ、とぼやきながらひとまず電源を切る事はやめた五条は伏黒の家までの経路を調べ始めた。ここで初めて、この街の名前と距離を知る。ちゃんと通ってきた筈なのに、会話だってしてきた筈なのに、いかに自分の心が余裕を無くして周りを見れていなかったのか。
 3日前、家を出る時と同じ格好でここを出る。使い捨てるために買った服も、その他の物も、全てどこかのゴミ箱に入れることになるだろう。
 カメラもなければ携帯電話の電源も落としていたから写真もない、着てきた服は全部使い捨て、土産なんて当然買わない。波打ち際に作った足跡ももうない。形の残るものは何も無い旅行だった。何も残らなくて、忘れられないもの。
「じゃ、行こっか。お小言聞くのは恵の家に着いてからにしてさ」
 明日になればきっと名前も思い出せない。行き方も分からなくなる。二度と訪れることはなくて、二度と会うことも無い。ここは、何かを捨て、忘れる為の街だ。
 残るのは知らない天井。それだけでいい。
「この街、もう一度来れると思います?」
「さぁ?行こうと思えば行けるんじゃない?」
 五条が顎に手を持ってくる時は、何も考えていない時か適当な嘘を言う時だ。

畳む

小説 編集

かき氷

「なんか意外でした」
「ん?」
「ゴテゴテしたかき氷の方が好きなのかと」
 伏黒の言葉に、五条はかき氷機を回していた手を止めた。居間に響いていた氷の削れる音が止んで、代わりに窓の外の蝉の鳴き声が居間を埋める。
「あ〜…、なんかああいうのって「よし食べるぞ!」て気分の時じゃないとテンション上がんないんだよね。気合いが必要っていうか、ほいほいって食べるものじゃないっていうか…」
 数日前に釘崎達に連れられて行ったかき氷のことを思い出し、身振り手振りでフルーツやらが盛られたかき氷を表現しながら言葉をつらつらと並べる。その五条の手からかき氷機を自分の方に寄せて、続きを削りながら五条の言いたいことをまとめる。
「要するに重たいと。フルーツも生クリームも盛られてましたしね」
 胃もたれですか、と添えれば「まだそんな歳じゃないし!」と否定するが、それを横に流して蝉の鳴き声を掻き消しながら受け皿に削った氷を積んでいく。あの日食べたかき氷はSNSで流行っているというだけあって何でも盛り放題ではあったが、削られた氷は口に入れた途端に溶けるような軽さだった。値段が値段なだけあって、羽のように軽くて雪のように溶けるの謳い文句は間違いではなかった。
 それに比べて、今五条の家の居間で作っているのはホームセンターで売られていた手回し式のかき氷機にコンビニで買ってきた氷による粒も大きければ軽くもない、有り体に言ってしまえば縁日にあるようなオーソドックスなかき氷。シロップもホームセンターでかき氷機の隣に並べられていたのを適当に見繕っただけ。当然上にのせるフルーツなんてものもない。
「てか僕が学生の頃はあんなかき氷なかったしさ、やっぱかき氷つったらザクザクしてて原色みたいな色したあまーいシロップが沢山かかってるこれなわけよ」
 丁度皿が埋まったところで五条がシロップ片手に綺麗な山になったかき氷を取り出す。粒の大きいそれは窓からの日差しを反射してキラキラと光っていた。
 メロン味の真緑のシロップを山の半分にかけ、スプーンで1口食べた五条は「これこれ!」と満足気に頷いた。それから残りの山半分にブルーハワイのシロップをかけると伏黒の口に無遠慮に突っ込む。
「恵もこの方が夏感じない?昔よく食べたじゃん、こうやって僕がかき氷機買ってきて扇風機しかない部屋で3人で削ってさ」
 ふわふわと一瞬で溶けもしなければ、ザクザクとした食感すらあるそれを軽く噛みながら思い出す。いつ壊れてもおかしくない扇風機しかない狭い部屋で、津美紀も入れて3人で同じことをした日のことを。窓を全開にして扇風機を回しても蒸し暑い部屋で、「シロップ全かけはロマンでしょ!」なんて言って恵の皿にだけシロップを全種類かけて笑っていたのだったか。綺麗な五条のブルーハワイの皿と、津美紀のイチゴの皿を指さして。
「…そういえばシロップ全かけはロマン、でしたっけ?」
「えっ…あー!」
 五条が止めるより早く、メロンとブルーハワイが半々にかかったかき氷にイチゴのシロップをかける。そして緑と青と赤が混ざってお世辞にも綺麗とは言えない色になったそれを五条の方に差し出した。
「確かに夏って感じですね」

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偏頭痛(side伏)
230話ネタ含む

 良い子は寝ている深夜3時。音を立てないように玄関扉を開け、真っ暗でしんとした家に帰る。物音1つしない家の中を真っ直ぐ寝室へと進み、このドアも音を立てないように開けた。
 カーテンは閉められ、常夜灯すらも付いていない寝室のベットの上、五条から見て右端に小さな山があった。1人でいる時くらい真ん中で寝ればいいのに、口元だけで笑ってから山に向かう。その小さな山の端っこから髪の毛がはみ出していた。恵の頭があるそこに目線を合わせるように寝室の床に腰掛け、布団の中から寝息が聞こえるのを確認する。
 このまま寝かせてやりたい気持ちより、少しだけ顔が見たい気持ちが勝ってしまった。
「……あつそ」
 布団の端を掴み軽く捲れば、額に髪の毛を張り付かせた恵の寝顔があった。全身すっぽり収まった布団の中はやはり熱が篭るのか、頬も少し赤かった。けれど僅かな光でも視界に入るのが辛いのだろう。五条にもそんな時はあるから無理に布団を剥がす気にはなれなかった。
 五条は常に自身の脳を反転術式で回復させていることの副作用として慢性的な頭痛に苛まれているが、時折薬なんか効かない程の酷い頭痛が訪れる。そんな時は今の恵のように部屋の電気を消して、カーテンを閉めて、視界に入る光を消してじっと過ごすしかない。五条がこうなった時、恵は目元に当てる氷嚢も持ってきてくれたりしたのだったか。そしてその時と同じことが、今恵にも起きている。あの場では仕方ない事だとはいえ、何度も五条の領域を受け、脳に多大な負担がかかったことで恵にも慢性的な頭痛が残された。僅かな光すら受け付けない、動けないほどの酷い頭痛も合わせて。
「……ん、」
「ごめん、起こした?」
 さっさと布団を戻せばいいのに、要らぬ過去を振り返っていたら恵の瞼が小さく震えて薄く持ち上げられてしまった。半分閉じた目がぼんやりと五条を映してから掠れた声で「…はよ、ございます」と律儀に挨拶を返してくれるのを見て小さく笑った。
「おはよ。夜中の3時だからまだ寝てていいよ」
 今こうしてお互いが五体満足で生きている。それだけあればもうそれ以上のことは望めやしない。この業界はいつだって生きているだけで御の字で、ましてやこの世界の運命がどうなるという大きな戦いの後ともなれば、時折訪れるだけの動けない程の頭痛なんて奇跡みたいなものだ。それ以上を望むのは呪術師としてあまりにも馬鹿らしい。ごめんなんて口にしたこともないし、恵から責められたこともない。お互いちゃんと理解している。それでも、胸が痛まないわけじゃあないのだ。
 寝てていいの一言に瞼を閉じた恵を見届けてから布団を戻し、小さく息を吐き出す。意味の無いことを考える時間が増えたのも、小さな悩みのひとつだ。
 軽くシャワーでも浴びてさっさとソファで寝るかと立ち上がった時だった。くい、と服の裾が引かれた。見れば布団の山から腕が1本伸びていて、五条の服を掴んでいた。
「なに?寝れない?」
「よこ、空いてますよ」
 布団の中からもごもごと不明瞭な言葉が聞こえた。一緒に寝てくれと、そう言っているのだ。月の無い夜、光を受け付けない夜、たまに恵はこうして一緒に寝てくれとねだる時があるがそれもまたあの日の後遺症みたいなものだった。心が痛まないと言えば嘘になる。嘘になるが、嬉しいのもまた事実だ。
「シャワー浴びたらすぐ来るから、だからさっさと寝な」
 ぎゅうと掴んで離さない恵の指を一つ一つ剥がしながら言えば、少しの躊躇いの後ゆっくりと腕は布団の中へと帰っていった。
 こんな事で少しでも痛みが軽くなるのならそれでいい、五条は足早に、けれど物音を立てないように寝室を抜け出した。

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ナンパごっこ

 夏の日差しが伏黒の頭上に強く差し込む。背後に大きく育った木があるお陰で何も無いよりは大分マシだが、それでもベンチはすっかり温められているし、シャツの下で汗が背中を伝うのが分かった。時刻は11時40分。気温のピークが近い。
 待ち合わせ場所に指定された公園には思いのほか走り回る子供や、ジョギングしている老夫婦がいる。伏黒の座るベンチから少し歩いた所にはアイスの路上販売もしているが、しかし日陰から出て日向を歩く気はしなかった。
 バックライトを最大にし、夏の日差しに負けないようにした代わりにスマホも熱を持ち始めていた。若干見づらいスマホを操作してメッセージアプリを開く。「どこにいるんですか」と打ち込めば、直ぐに既読が付いたが返事は無い。
「…っとに……」
 舌打ちが出そうになった時、伏黒の前に日陰が現れた。スマホの画面が一気に見やすくなる。
「お兄さん、なにやってんの?」
「…待ち合わせ」
 顔も上げない伏黒を気にもせず、目の前に現れた男は伏黒の横に腰掛けた。ベンチが軋んだ音を立てる。じっとりとしたまとわりつく気温に人の体温も追加されて、伏黒はため息を吐き出した。
「結構汗かいてるけど、だいぶ待ってんの?」
「10分遅れ」
「こんな暑いのに?薄情だね~」
 メッセージアプリに打ち込む。「何してるんですか」。しかし今度は既読は付かなかった。
 スマホを見たまま男の方を見ようともしない伏黒に痺れを切らしたのか、男の手が伸びてきた。気温に対して腕を掴んできた男の手は冷たかった。何か冷たいものでも持っていたのか。
 そのままぐいと伏黒を引き寄せて、無理やりに男の方を向かせる。男と思っていたより近い距離で目が合う。サングラスに機嫌の悪そうな伏黒の顔が映っていた。
「怒ってんの?」
「当たり前でしょ。クソ暑い中待たせて。よく分からない小芝居するんだったらまずは詫びてくださいよ」
「アイスコーヒー買ってきたんだけど、それじゃ駄目?」
 五条が笑いながら伏黒の頬に自販機で買ってきたのだろう缶コーヒーを押し付ける。買ってきたばかりなのか、まだ随分と冷たい。熱を持った身体にはひどく気持ちよかった。が、それに絆されてしまう程夏の日差しは甘くなかった。
「…アイス。あそこで売ってるやつ」
 五条から缶コーヒーを受け取りながら、路上販売店を指さす。指さした先を見た五条がにまりと笑って「トッピング全盛りとかする?贅沢に」と言うが、そこまではいらないと首を横に振る。
「普通の1個でいいです」
「何個でも重ねられるけど」
「1個で」
「はいよ」
 立ち上がった五条がアイスを買いに向かう背中を見ながら、買ってきてくれた缶コーヒーを1口飲めば火照った身体が少し冷やされる。そこでアイスの味を指定しなかったことを思い出すが、そもそもラインナップが分からないことにも気付く。けれど五条だったら適当に伏黒が好みそうなものを買ってきてくれるだろう。もしかしたら、トッピング全盛りで。

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芽生え

 1度だけ、五条が半年ほど訪れなかった時期がある。
 何かと恵と津美紀の暮らす寂れたアパートにやってきては、何か甘いものを持ってきたり、ただ仕事の愚痴を零したり、晩御飯を一緒に食べたりしていた。時折、津美紀を家に置いて恵だけを五条の任務に付き合わせることもあったけれど、遊びに来ることの方が幼い頃はイメージとしては強かった。
 そんな五条が来なくなって最初の1ヶ月2ヶ月はよくある事だったから気にもしなかった。そこからもう2ヶ月経って、津美紀が恵の方を見ながら「五条さん、忙しい人だもんね」と理由とも呼べない薄い理由を考えたりもした。忙しい人だなんてことは分かっていたから、来なくなって5ヶ月目になっても恵は何も言わなかったけれど、頭の片隅では捨てられたと思っていた。五条が来なくても定期的にお金がやってくる点は違うが、2人の前から大人がいなくなるのはこれが初めてじゃないのだ。最低限の面倒を見てくれるだけ親よりは良い人、と恵も津美紀も心の中では考えていたと思う。2人ともそういう諦めに関しては経験が人よりあったから。
 そうして6ヶ月目、五条に捨てられても恵も津美紀も小学校に行かなくてはいけないし、帰ってきたら家事をしないといけない。いい加減五条のいない生活に慣れてきた頃。
「あれ、恵すっごい顔してんじゃん」
 玄関扉を開けると、居間で勝手にお茶を淹れている五条がいた。横には何やら土産の入っていそうな紙袋を置いて、窮屈そうにちゃぶ台の前に座っている。恵の後に続いて中の様子を見た津美紀が後ろで「五条さんだ!」と驚いた声を上げたのがどこか遠くで聞こえた。なんだ急にと言いたいのにびっくりした頭は言葉を忘れてしまったようで、玄関に立ち尽くしたまま津美紀に追い抜かされても何も言えなかった。津美紀にどこのものか分からない置物を手渡してから、恵の方を向いた五条がくしゃりと笑う。
「まだすっげぇ顔してる。なに、捨てられたとか思ってたの?」
「っそ、そんな変な顔してない…」
「つっこむ所そこ」
 五条に話しかけられたことでやっと動くことを思い出したのか、言葉はまだスムーズに出てこないが靴を脱いで居間へと動けるようになった。この半年で恵と津美紀だけの空間に慣れてしまって、五条で少し狭くなった家はなんだか違和感がある。けれど置物を抱えた津美紀の横に座る頃にはその違和感もすぐに薄れてしまって、それだけ五条が恵の日常へ溶け込んでいたのだと気付く。
電波も無いような僻地の海外に飛ばされただとか、予定より時間がかかったとか、移動にも日数がかかっただとか、愚痴と合わせて長いこと顔を見せなかった理由を述べていた五条が恵の顔を見てもう一度笑う。
「ごめんって、捨てたりしないからむくれないでよ」


「…っていう夢を見たんですよ」
「懐かしい〜!あの頃の恵は可愛かったのに今の恵ときたら…」
 よよよ、と泣いたフリをした五条が「てまぁ今も可愛いんだけどさ」とすぐに真顔に戻して続けた。任務帰りの電車内は、既に終電も近くて乗り込んでいるのは五条と恵だけ。今朝の夢の話をしても、五条がしょうもない泣き真似をしても、誰も見ていなかった。
「やっぱあん時って本当に捨てられたとか思ったの?」
「まぁ、多少は」
 本当は多少とかではなくてかなり、だったのだけどそれは胸にしまう。
 思えばあれが芽生えのひとつだったのかもしれない。勿論あの出来事が全てではないが、五条に居てほしいと思うきっかけにはなった筈だ。失恋の喪失感、に近いものを体験したのだ。そんな体験をしたあの時の恵がどんな顔で五条を見ていたのか、分かりはしないが想像はつく。会えて嬉しくて、笑いかけてくれて嬉しくて、捨てないよと言ってくれて嬉しくて、でも素直には言葉に出せない性分。その分だけ顔にはよく出てたのだろう。悔しいことに。
「でも、まだまだそんな心配要らなそうだなって思ってますよ。今は」
 黒い窓に五条と恵が並んでいる姿が映る。隣にいるのだ。あれから何年も経った今も。これを見て信じない方が五条にしてもらったこれまでに失礼というもの。
「今は、じゃなくてこれからも、でしょうが」
「五条さんが帰って直ぐに報告書やってくれたら、そういうことにします。この間の分もまだサボってますよね」
「うわ、可愛くない」

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待ちきれないのはお互い様

「……もう金曜も終わりかよ」
 大きく溜息を吐き出して五条はスマートフォンをベッド脇にあるサイドチェストの上に放り投げた。今日も一日駆け回って携帯なんてろくに見れていない。充電なんて必要なかった。
 与えられた宿は一級品だが、この宿を起点にあちらこちらへと仕事に駆り出されているおかげで名物の露天風呂もろくに楽しめていない。さっとシャワーを浴びては寝て、起きたらさっさと仕事に向かう。忙しすぎて月曜から始まったこの出張も気がつけば5日が過ぎ、明日(既に今日になっているが)が最終日となっていた。だらだらと長く感じるくらいなら知らぬ間に過ぎ去っていた方がまだいいのかもしれないが、やはり勿体ないと感じるのは仕方ない。本当に仕事のこと以外この1週間の記憶がないのだから。
 けれど明日が終わればあとは帰るだけ。余程予定を詰め込んだ自覚があるのか、お上の人間は一応日曜日を丸々オフにしてくれた。といっても帰るための移動で半分終わるが。
「………ん、」
 さっさと寝てしまおうと目を閉じた時、サイドチェストの上で携帯が震えた。既に12時を回り、金曜を通り越して土曜になっている。こんな時間にくる連絡と言えば追加の仕事くらいなものだった。寝たことにして無視してしまおうかと思ったが、なかなか途切れない着信に五条はもう一度大きな溜息を吐き出しながら画面もろくに見ないで着信を取った。
「なに」
「随分と機嫌悪そうだから切りましょうか」
「っ、えっ、いやそのままで!」
 五条の慌てふためいた様子に携帯の向こうで伏黒が小さく笑った。こんな時間に、ましてや伏黒から連絡が来るなんて思いもしなかったのだ。けれど五条の機嫌がすこぶる悪いのは予想していたのか、通話は切られることなく続けられた。
「全く連絡来ないし、余程忙しいみたいなのでたまには俺から電話しました。多分メッセージだと見ないでしょうし」
「寂しかった?」
「五条さんが、でしょ」
 言外に寂しかったと言われて疲れきった五条の気持ちが持ち上がっていく。忙しすぎて笑うことすら忘れかけていた。喉の奥で素直じゃないなと笑って携帯を充電コードに繋いだ。
「そういうことにしとくけどさ、折角恵からかけてくれたしなんかする?」
「なにか?」
「テレセク」
 少しの間。初めて聞く言葉だろうが、五条の言い方からやがて何の略語か気が付いた伏黒が呆れた声で言った。
「そんな気分じゃないでしょ、五条さんが」
「はは」
 伏黒の言う通りだったが、答えずに笑うだけで誤魔化す。実際、今はこうして他愛のない話をしたかった。五条の方にはこの5日間に話して聞かせるような面白いことは何も無いが、伏黒の方には何かしらあるだろう。それを聞くだけでよかった。ここに伏黒本人がいたらもっと良かったのだけど、こればっかりは仕方ない。
「日曜の夕方にはそっち着けると思うからさ、晩御飯でも一緒に食べようよ。駅で待ち合わせしてさ」
「…いや、俺がそっち向かいます」
「ん?」
 伏黒が少し言い淀む。そして続けた。
「明日…いやもう今日か…の夕方か夜にはそっちに着けると思うんで、一緒に帰りましょう。移動時間結構長いじゃないですか、五条さんがいるところ」
 伏黒の言葉を咀嚼して、飲み込んで、理解して、そして一番に笑いが込み上げた。寂しかった、くらい素直に言えばいいのに。会いたかったとか、直ぐに顔が見たいとか、待ちきれないとか、素直に言えばいいのに。素直なことは言わないでこんなことをするから余計に愛らしい。
「僕の仕事終わるの、たぶん夜遅いよ。夕方には終わってない」
「いいですよ。宿の住所教えてくれたらその辺で時間潰します」
「…明後日の朝一で帰る予定だったけどさ、明日は恵も泊まれるようにしておくよ。一緒にゆっくり寝よ」
 一緒に寝てほしい、ただ何もしないで横にいてくれるだけでいい。伏黒にはちゃんとこれも伝わっているだろう。携帯の向こうで伏黒が仕方ないですねと吐息だけで笑うのが聞こえたのだから。
近くに空港も無ければ新幹線もない。途中から電車を乗り継いで行くような、辺鄙な場所だ。そんなところに来たって時間を潰せるようなものがあるとは思えない。そんなの伏黒も分かっているだろうに、それでも五条が帰ってくるのを待ちきれないのだという。
 明日は仕事の合間に伏黒と食べれそうな場所を探そう。夜遅くまで営業していて、未成年でも入れるような場所。それかコンビニで何か買って食べながらこの旅館で贅沢に夜を明かしてもいい。
「後で住所送っておくね。気をつけて来て」
「はい。…それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 ただ間違いないのは、可能な限り早く仕事を終わらせないといけないことだ。五条だって伏黒の顔が見たくて待ちきれないのだから。

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酔っ払い
上手いこと誰も死なずに成人迎えた世界

「めっずらし〜」
 そう零したのが聞こえたのか聞こえてないのか、伏黒は五条が玄関を開けて迎え入れるなり靴も脱がずに崩れ落ちた。真っ赤な顔で、息はひどく酒臭い。誰と飲みに行こうが殆ど酒なんて飲んでこないのに、ましてや血筋かそこらの人間よりはずっと酒に強くてまず酔わないというのに、今日の伏黒は帰宅出来たのが不思議なくらいの酔っ払いになっていた。思わず玄関から顔を出して辺りを見回すが、伏黒を送り届けてくれた人は見当たらない。本当に1人で帰ってきたらしい。
「恵?立てる?」
 今にも靴に囲まれながら寝転がってしまいそうな伏黒にそう声をかければ、ゆっくりと首を横に振った。視界が回るのか、へたれこんでいるだけでもふらふらしている。
 今日は呪術高専時代の同級生と先輩たちとの飲み会だったはずだ。見知ったメンバーであれば伏黒はきっぱり断って殆ど飲まない筈だが、どうして今日に限って。原因を考えながらふにゃふにゃになった伏黒を横抱きで持ち上げる。五条ももう三十路もいいところだが、意外とどうにかなって少し安心した。
「水飲める?ていうか1回トイレで吐いてくる?」
「…も、出した…」
「道で?」
「いざかや…」
「んじゃ水だけちょっと飲んでさっさと寝な」
 寝室に向かって歩く揺れですらしんどいのか、うーうーと唸りながら五条に縋り付く。もうすぐ着くよ、と言いながら背中をさすっているうちに寝室に着いて、伏黒を優しくベッドに転がした時だった。伏黒の腕が五条の首に巻きついたまま離れない。離れないどころか五条の首元を唇だけで軽く食んできた。いやに熱い舌が時折肌の上を滑っては、また唇だけで柔く噛み付いてくる。
「…恵さーん、離してくださーい」
「ん、…」
「やじゃなくて」
 ようするにお誘いだ。酔いで頭の中がふやけているからか、随分と分かりやすい。素面の時にこうしてもらえればすぐ乗っかるのだが、流石に今日は乗っかるわけにいかなかった。惜しいなぁ、と心の中で零してから無理矢理首に巻きついていた伏黒の腕を解く。
 酒で真っ赤な顔をした伏黒が不服そうな顔をするが、その頬を両手のひらで包んだ。
「どーしてもシたいんだったら僕が一緒に行って中の洗浄することになるけどそれでもいいの?こんなフラフラの酔っ払いを1人で風呂場になんて行かせらんないよ」
 男同士のセックスは手間がかかるのだ。そしてそれはふやけた頭でもしっかり刷り込まれているようで、段々五条の言葉を理解したのか伏黒の顔から血の気が引いていく。そして五条の手に挟まれながら小さく首を横に振った。
「…ね、ます、」
「よろしい。素面の時にまたこのお誘いしてね」
 五条の言葉を最後まで聞いたのか聞いていないのか、五条の手から逃れた伏黒はのそのそと布団の中に潜り込んでいった。水を用意する間もなくすぐに寝息が聞こえて、伏黒がぐっすりと寝落ちたのを確認してから五条はリビングへと向かった。添い寝してやりたいのは山々だが、これだけ飲まされているとなると多分酒臭いその息だけでも五条には少しきつい。しかし明日起き出した伏黒に今夜のこの一連の流れを全て教えた時の反応を思えば、今夜くらいソファで寝るのも大したことじゃない。
「……あ、そういえば今日って硝子いたんだっけ」

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