薄明
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朝露と共に消えていくもの
2020年頃に書いたから色々齟齬がある
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子供の思っていることなんて手に取る様に分かる。まだ拙い小さい手で、どこか覚束ない足で、真っ直ぐにしか見れない瞳で、物事を知らない頭で、隠し事などできる筈もないのだ。隠そうとしているくせに、何にも隠しきれていない。その幼さを愛らしい嬉しいと思いこそすれ、それ以上のものはなかった。土産を持って行けば片方は素直に飛び跳ねて喜んで、もう片方はまたかとうんざりした顔を向ける。そのくせ瞳の奥には五条が持ってくる美味しいものへの期待が滲んでいる。絵に描いたようにきらきらとする瞳を、好意を向けられて喜ばない人間の方が稀だ。
「今日のおやつはマドレーヌ持ってきたよー」
そう言いながら道中で買ってきた紙箱を掲げて見せれば、玄関まで駆け寄ってきた津美紀は頬を紅潮させてやったぁと弾んだ声を上げた。頭がぶつかる玄関を潜り抜けるのもすっかり慣れたもので、狭い三和土に靴を置いて六畳一間へと上がり込む。玄関ドアを開けるだけで全てが見渡せてしまうような小さい部屋は、しかし幼い子供二人には十分な大きさだった。子供だけであれば、の話だが。
室内でも天井が五条の頭を擦るものだから、津美紀にマドレーヌを渡してすぐに畳の上に座り込む。そのまま行儀悪く畳を擦りながら玄関に出迎えもしない恵に近寄れば、丸いちゃぶ台の上には宿題が広げられていた。欠伸が出る程に簡単な算数の宿題だった。ドリルという、五条にはもう存在すら随分と懐かしいそれを広げてせっせと割り算を解いている。
「恵、五条さんが来てくれたんだからあいさつして」
「…どうも」
五条には目もくれずに淡々と計算をこなしていたというのに、津美紀が言えば簡単に振り向く。それが少々癪だと思わないでもないが、まだ丸い手でもって鉛筆を握って単純な割り算に悩んでいる姿は悪くなかった。恵の肩は顎を乗せるには小さすぎて、代わりに頬が触れそうな距離で横からドリルをのぞき込む。
「基礎はちゃんとできてんだ」
ページの下部にぽつんと残されている応用問題の一つで頭を悩ませているようだった。五条から見れば考える必要もないようなものだが、幼い頭では難しいのだろう。問題の横には書いては消したのだろう計算の跡があった。すっかり視線をドリルに戻した恵は返事を返さない。けれどそれもいつものことで、どうせ五条が持ってきた菓子を見ればあっさりと頬が綻ぶのを知っている。
「解き方のコツだけ教えてあげるからさ、これ終わったら晩御飯食べようよ」
マドレーヌ買ってきたんだよ。再度そう言うと恵はドリルばかりを見つめていた目を持ち上げて台所へと向けた。台所の空いたスペースに五条が持ってきた箱を置いている津美紀を見て、ちょっとだけ目尻が緩む。つんけんした表情から、ほんの少しだけ丸い表情になる。子供は菓子が好きだ。
その表情を答えとして恵が握っていた鉛筆を取り上げる。あ、と小さく零したのを無視して何度も消した跡のある場所にヒントとなる数式を書いていく。横でいらないだとか余計な事すんなとか聞こえた気がしたが、空腹には変え難い。それに口では文句を言いながらも鉛筆を持つ手を邪魔することはしないのだから分かりやすい。2年ほどの付き合いでもこの子供が決して馬鹿ではないことは知っている。もうこれで答えを導き出せる筈だ。
「もう分かるでしょ?津美紀とご飯の支度してくるから早く終わらせて机の上片付けてね」
鉛筆を置いて恵の頭を軽く撫でれば「そんなのなくてもいい」とほんのり染まった頬と尖らせた口で言うが説得力なんてものはありはしない。恵が宿題の続きを始めたのを確認してから台所にいる津美紀の方へと向かう。立ち上がると天井に頭がぶつかるのが難点だが、流石に座ったままじゃ手伝いはできない。中腰になって津美紀の手元を覗き込めば、子供には不釣り合いなほどに大きく見える鍋の中にカレーがいた。部屋に入った時からカレーの匂いがしていたから分かっていたけれど、いざ実物を目にすると途端に空腹感が増す。どうしてカレーは匂いだけでこうも人の食欲を刺激するのだろうか。ルーの中で不器用に切られた不格好な肉と野菜が泳いでいた。
「二人だとあまっちゃうから悟くんがきてくれてよかった」
お玉で中身をかき回したまま津美紀がこちらを振り向いてにこりと笑う。子供二人分をまだ上手く作れない子供らしさで鍋いっぱいに入ったカレーはきっと甘口だ。
余ったカレーをアレンジする方法も、丁度いい量の作り方も教えてくれる大人はいない。きっとそんな大人はいなくてもすぐにどこかで覚えてしまうのだろうけれど、しかしこの部屋のそこかしこに子供だけの拙い生活が転がっていた。
「じゃあいっぱい食べちゃお」
「いつもおせわになってるから、少しでもお返しになるかな」
台所にあるのは年季の入った冷蔵庫とかろうじて電子レンジ。炊飯器なんてものはなかった。だからこの子たちはいつだって安売りされているパックの白米しか食べないし、特売の総菜パンか賞味期限が近い食パンばかりをよく食べる。五条が毎月の生活費を渡しているとはいえ、その金が無限ではないことをもう知っているのだ。言ってくれればいくらだって増やすことはできるけれど、全てのものに限りがあることを知っている子供たちはそんなことを言いやしない。ちゃんと生きる為に必要なことをまだ知る必要のないその幼さで知っている、我儘を知らない子供達だった。
「津美紀は素直でいい子だねー、恵は素直じゃないけど」
ちらりと振り返ればもうドリルを閉じた恵がランドセルを開けているところだった。どうやら無事に宿題は終わったようで、ちゃんと片づけをしているらしい。
「ご飯でもレンチンしようかな」
カレーの美味しそうな匂いから一旦離れて台所の端に積まれたご飯パックを4つ手にする。津美紀と恵で一つずつ、五条で二つだ。小学生に晩御飯をご馳走になるなんて人が聞いたら信じられないと叫びそうだが、その代わりにご飯パックが何個も買えるくらいの有名店のお菓子を持ってきているからいいだろう。
レンジの扉の向こうでご飯パックがぐるぐると回り始める。テレビはあれど電源はつけられていないこの部屋では、温まるまでの数分も長く感じた。温まるのを待つ五条の横で、小さい身体がちょこまかと動き回ってはスプーンやら飲み物やらを用意している。洒落たグラスもないここでは、きっと両親が残していったのであろうプラスチックのコップくらいしかない。飲み物だって、どこのブランドか分からない安売りのペットボトルの麦茶。おかずはきっと昨日買ったのであろう惣菜の残り物。
「はいこれ」
「ありがとう」
1つ温まれば準備をしている子らに手渡して次を。そうやって準備を進めていって夕食が並んだちゃぶ台の上はひどく質素だ。五条の分だけしっかり白米は盛られて、恵と津美紀はパックの片側に寄せただけ。その空いたスペースによそわれた甘口のカレー。残り物であろうスーパーで売られているマカロニサラダと唐揚げ。市販の麦茶。準備の終えたちゃぶ台の前で手を合わせていただきます。五条がいない時もこうして食事を摂っているのだろうなという自然な流れだった。
少し歪ではあるが出会った頃と違って野菜も肉も繋がってないし半生ということもない。味が濃すぎることも薄すぎることも、包丁で指を切って絆創膏を貼るようなことも減った。五条から教えたことなんて殆どないが、少しだけその成長が寂しくも嬉しく感じた。子供の成長は目が回るほど早い。
「美味しく出来てるじゃん」
一口食べてそう言えば、津美紀はよかった!と笑った。
「このにんじんね、恵が切ったの。上手でしょ」
スプーンの上に人参を乗せた津美紀が、切った本人より得意げに言う。他の野菜との違いなんて分からないけれど、あまりにも自慢げな顔をして言うものだから五条は「やるじゃん恵」なんて言って黙々とカレーを頬張る彼の頭を雑に撫でることしかできなかった。されるがままに頭を右に左と揺られている素直じゃない素直さが可愛らしい、だなんて。
学校であったことやいつも行くスーパーでの出来事、五条がいない間に話したいことは随分と積もっていたようで次から次へと話題が飛び出す。それを微笑ましく聞きながら今日はいつもより間が空いてしまったな、なんてことを考えた。
最低でも月に一度はここに来るように決めているけれど、今回は間が空いた。多くて2週間に1度、少なくても3週間に1度は来ていたのだけどここ最近は仕事が立て込んでいた。あちらこちらで3級から2級程度の呪霊が多発したのだ。個々はそれほど怖くはないが、1度祓えば次の日には別の場所でまた現れる。元から人出の足りていないこの業界でそんなことがあれば五条が駆り出されないわけが無い。呪霊があちこちで出るなんてよくある話だが、それにしても頻度が高すぎた。この程度で五条どころか呪術界にも世界にも何かが起きるとは、この騒ぎを起こした張本人は露ほども思っていないだろうに。そうして西へ東へと飛び回って急にぱたりと静かになったのが一昨日のこと。いつもなら手早くさっさと済ます報告書だってこれだけ数が多ければそうもいかない。報告が終わってひと段落したのが昨日のことだった。対して強くもない呪い、祓うのに体力を使うようなことも無い。それでもひと段落した頃にはどっと疲れが押し寄せてきた。この騒ぎの後ろにいるのが誰なのか、分かるからこそ余計に。
「それでね、悟くん」
3分の2ほど食べたところでスプーンを置いた津美紀がじっと五条を見る。少しだけ緊張を乗せた瞳が右に左にと1度さまよって、頬はちょっと赤い。何か言われるな、考えるまでもなく分かった。おずおずと津美紀が口を開く横で恵は何も気にした風もなくカレーを食べていた。
「恵とご飯がたべれたり一緒に学校行けたり、ここで暮らせてるのが悟くんのおかげだってちゃんと全部わかってるよ。いつも本当にありがとう」
照れくさそうに津美紀がはにかむ。
なんと言葉を返したらいいのだろう。2人が暮らせるようにと、2人が本来だったら歩む筈だった未来を曲げたのは自分だ。けれどその代わりに言ってないこともあるし恵の将来はもう決まってしまった。ろくな大人を知らないこの子達は2人で暮らせる環境と資金をくれる五条を悪人だとは思っていない筈だ。将来恵は必ず呪術師というものになることは本人も津美紀も知っている。それが条件で今の生活があることも知っている。でもその人生が如何に血生臭くて、汚れたもので、決して美しいものではないことかは本質的に理解していない。2人が思うほど五条は正しい善人ではなかった。大して思い出もないだろうけど、君たちの父親を殺したのは僕なんだよ。なんて、それを聞いたら2人はどんな顔をするだろう。
「…どしたの、急に」
「身近な人に感謝を伝えてみようっていう課題がでたの。だから悟くんしかいないなって」
ありがとう、もう一度そう言って微笑む。息を飲むほどに大人びたその顔に、上手く笑顔を返せた自信はない。大してありもしない良心が、今更になって少しだけ傷んだ。
―――――――
呪いでありながら随分と人間のようだった。
どんな経緯で生まれた呪いかなんて興味が無いから細かいことは忘れてしまったが、人の中に潜り込んで身を潜めているうちに人間らしさが生まれて普通の人間のように生活していたのだという。普通に朝起きて幼稚園に行って食事を摂りまた眠る。人に寄生する呪いもいるにはいるが、これは五条でも初めて見るケースだった。きっと同じ幼稚園にいる男の子の腕を折らなければ、わざわざ呪術高専に話はこなかっただろう。それだけ人として生きていた。最初に小さな動物を殺すことから始まって、親は児童相談所や色々なところに助けを求めたが原因は分からず、児童の骨をへし折ったところでやっとこちらに依頼が回ってきた。しかしその頃にはもう元々の少年の自我はすっかり呪霊と同化して消えてしまっていた。大本がその少年であったからか、中身がすり替わっても母親が気付かない程なのだから随分と救いのない奇跡だ。
流石に母親の目の前でこの子を祓うわけにもいかず、かと言って本当の事を伝えたら自分が殺される瞬間までこの呪いを我が子として育てるかもしれない。中身は呪いとはいえ、見た目はただの子供なのだからどう転んでも後味のよくない仕事だ。時折五条への嫌がらせでこういう仕事を押し付けてくるのだから、上の人間には優しい心というものが足りていない。
「ある程度事情は聞いてると思うけど、この子もう中身はただの呪い…なんていうかまぁ悪霊みたいなもん。」
けれど祓わないことには話は終わらない。元の少年はもう死んでいるし、成り代わっている呪いは誰かが祓わねばならない。玄関先で子供と共に出迎えてくれた両親にそう伝えれば信じられない気持ちを半分、悲しみを半分湛えた顔で五条を見た。それはそうだ。ほんの少し前まで我が子だと信じていたのだから。
「何も変わってない、じゃないですか」
母親の声は震えていた。
「外見はね。このまま置いといてもいいけど、そのうちあんたを手に掛けるよ」
「っそ、そんなこと…!」
五条から守る様に膝をついて少年を抱き締める母親と、その2人を更にまとめて抱きしめる父親。どこか最後を惜しむようにも見えるその姿は美しい愛の形だった。少年の中にいる呪いが、怯えた目で五条を見る。今にも母親の腕を握り潰さんばかりの力で縋り付いている姿を見て、つくづく本当によくできた奇跡だと思う。
「最近ちょっと変だなって思う事ってなかった?例えば握り返してくる力がやけに強いな、とか」
「それ、は」
「物を壊す頻度、高くなかった?手を滑らせてとかじゃなくてさ、ただ遊んでるだけなのに不自然な壊れ方してなかった?」
五条の言葉に母親の目が少しずつ歪んで涙が滲む。心当たりがあるのか、五条を写していた瞳は床へと落とされてしまう。子供だけが五条を見ていた。思っていたよりも簡単に母親が折れたあたり、きっと五条が来るまでにも不審に思うことは多かったのだろう。呪いよりも人間に苦労するような事案は多々あるが、今日はそうでないようで胸を撫で下ろす。
「お祓いで、この子を戻すことは出来ないんですか」
涙に濡れた声で父親が言う。元々の少年の魂は完全に呪いの中に取り込まれてしまっていて、もう呪いと少年を切り離すことは出来ない。少年自身の自我もない。既に少年は死んでいるようなものだった。けれど詳細に伝えたところで何も変わらないと、「できないよ」と簡素に言えば抱きしめていた手を離してとうとう母親は声を上げて泣き崩れた。父親も俯いて唇を噛み締めている。流石にこの後殺すのだとは伝えていないが、これが更生したらまた会えるとか、そんな話ではないことを理解しているのだ。
子供は母親の横で逃げるでもなく悲しそうに立ち尽くしていた。
わんわんと泣く母親の姿に心が痛まないと言えば嘘になる。五条が来なければ死ぬまでは幸せに過ごせたのだろうから。けれどそれでも呪いは祓うのが仕事で、心のケアまでしてやれるような万能なヒーローでもない。
「後のことはこれから来る人に聞いて。…ほら、君はおいで」
五条に腕を掴まれても少年の形をした呪いは大人しかった。声を上げるでもなく裸足のまま玄関の外へと出る程に。去り際の母親が伝えた「元気に過ごしてね」に答えるでもなくじっと両親を見つめる姿は、まるで本物の人間のようであった。
「呪いは確保した。僕は離れたところで祓うから、後よろしく」
子供を腕に抱えながら依頼主の家を出たところで補助監督に連絡をする。そう離れたところにはいない筈だからすぐに母親の元へやって来てくれるだろう。
軽く地面を一蹴りして宙へと浮かび上がり、町外れにある森林公園へと向かった。平日の朝10時、人の少ない公園の小さな林の中。今更暴れるとは思わないが念の為に小さな帳を張っておいた。
朝から夜になった林の中で、やっと地面に降ろして子供に問う。単純な好奇心だった。
「なんで同じ組の子に怪我させたの?させなかったらもうちょい長生き出来たかもよ」
五条の問いに暫くの間があってから、どこか拗ねたように口を尖らせて言った。
「ただ遊びたかっただけ。ぼくは遊んでるだけなのに、勝手にけがするんだ」
「近所の野良猫も?」
「なでてあげたら死んじゃった」
「何でか分かる?」
「……みんな、ぼくより弱いから」
話し方まで幼い。呪い自身は人の中に入り込めて喋れる程度には自我も知能もあるというのに。人の負の感情から生まれる呪いが何故こうも正しく人間らしく生きようと変異したのか、五条には興味のないことだ。こんな奇跡がまた起こるとは思えないから、謎を解明することも出来やしない。
「独りぼっちか」
だが、この呪いの首に手をかけた時、とても他人だとは思えなかった。隣に並ぶ誰かが欲しいだけの、可哀想な子供だった。
「今日は飴ちゃんだよ~」
そう言いながら玄関を開けるが、しかし津美紀の出迎えがなかった。もう恵も津美紀も学校から帰ってきている時間の筈なのに、恵はともかく津美紀が出てこないのは珍しいと思いながら「悟さんだよ~」とそのまま上がり込む。
「…あれ、津美紀は」
「林間合宿」
居間にも台所にもどこにも津美紀はおらず、子供一人ではだだっ広く感じる居間で恵だけがちゃぶ台に向かっていた。持ってきた飴を机の上に置きながら恵に聞けばそっけなく教えてくれて、そこでやっと今日が林間合宿の日であったと知る。二か月くらい前に訪れた時に1泊2日の林間合宿があると言っていた気がするが、具体的な日にちまでは覚えていなかった。きっと飴なんてスーパーで安売りされているものしか知らないであろう二人の為に、うざぎやら猫やらの形をした飴細工を持ってきてあげたのだけど。
「そういやそんなこと言ってたっけ。今日から?」
「明日の昼すぎに帰ってくる」
「じゃあ今夜は一人なんだ」
五条の方を見るでもなく恵は黙々と辞典とにらめっこしてはノートに何かを書きこんでいた。よく喋る津美紀がいないとどうにも部屋の中が静かで仕方ない。けれどテレビをつける気にはなれなくて、恵の宿題が終わるまで眺めていることにした。
初めて会った時に比べたら随分と成長したとはいえ、五条に比べたら小さすぎる手。それが辞典の索引をなぞっては捲って、そしてまた何かをノートに書きこんでいく。きっと言葉の意味を調べてこいだとか、意味を調べてから例文を書いてこいだとかそういった類のものだろう。鉛筆が紙の上を滑るかりかりという音がもう随分と懐かしい気がする。大人になると意外と文字を書く機会というのは減るものだ。
「ねぇ、晩御飯どうするの?」
「しょうが焼き」
「えっ、作れんの?」
五条の言葉に眉間に皺を寄せた恵は「自分で作らなきゃ食べられない」と言った。ここで初めて恵と目が合う。ちょっと元気がなさそうな瞳と、きゅっと寄せられた眉間の皺。それからどこかつんと尖った唇。それを見て何か言わなきゃと頭が勝手に思って、そして出てきたのは「僕が作ってあげるよ」だった。
最低でも一か月に一回は顔を見せるようにしているが、最近はその最低限でしかここに来ていなかった。勿論仕事が忙しいのもあったのだけど、ちょっとだけ、雑な扱いをしてしまった。大人なんていなくても子供は子供なりに成長していく。五条がいなくたって宿題は終わるし、いつの間にか一人で生姜焼きだって作れるようになる。それでも、寂しい日は寂しい。姉弟一緒にいても寂しい日はあるのに、一人になったら余計に寂しいに決まっている。五条が来なかったら一人で作って一人で食べることになっていた生姜焼き。きっと味なんてしない。寂しさが味をおかしくさせることを、五条は知っている。
「…忙しいんだろ、無理しなくていい」
「してないよ」
ゆっくりと宿題に落とされた視線は、けれど宿題なんて見てなかった。何を書くでもなくノートの上を彷徨う鉛筆、1ページも捲られない辞典、静かになる部屋。心臓がきゅう、と音を立てるようだった。
嬉しいくせに素直じゃない。寂しいのに、寂しかったと言わない。子供のくせに我儘を知らない。俯いた頭を撫でてやれば、やっぱり恵は大人しくされるがままだった。
「…今日は津美紀いないのに、どうしてそこまでしてくれんの」
ノートの上を彷徨う鉛筆が、不意に意味の無い線を引いた。
「津美紀?津美紀がどうかした?」
「…………俺が、可愛げがないからきたくなくなったのかと、思った、から」
最近は2人に生活費を渡すくらいでしかここに来ることはなかった。忙しいのは勿論、でもちょっと手を抜いたのも本当。来ようと思えば本当はもう少し来れたし、今日の飴だって本当は手抜きだ。都会の喧騒の中でお菓子を選ぶのが今日は少し疲れてしまって、適当に可愛いものでも買ってやれば喜ぶだろうと思って飴細工を買ってきた。一応浅草にまでは行ったけれど、それでも五条からしたら手抜きだ。それをこの子は自分が原因でここに来なくなったのだと思ってすらいた。自分の将来が担保にされていることは分かっていても、捨てられたばかりの子供だ。自分の意思じゃどうにも出来ずに勝手に捨てられる無力さをよく知っている。
「…そんなわけ、ないじゃん」
ここでやっと五条は初めて伏黒恵という少年を見た。五条が思っているよりずっと身体は小さくて、触れた髪は思っているよりずっと柔らかかった。
何故この子に声を掛けたのか。何故面倒な手続きやしがらみその他諸々を片付けてまで引き取ったのか。何故、構ってしまったのか。そんなことはよく考えた。この子の父親からの遺言と血筋がきっかけであったのは確かだけれど、じゃあ何故それ以上に気にかけるようになったのだろう、ということについては考えたことはなかった。ただ引き取って教え子とするだけなら、わざわざ顔を見せる度に菓子を買って行く必要なんてなかったのに。
宿題をしている恵をそこに置いて狭い台所で晩御飯を作ってあげて、食べ終わったら恵が風呂に入っている間に片付けを済ます。買ってきた飴は明日津美紀が帰ってきてから食べるのだという。そうこうしている間にあっという間に夜は更けて、けれど考えていることは何も答えが見つからないままだった。今にも消えそうな白熱灯が五条と恵しかいない部屋を眩しく照らす。
「帰んないの」
「津美紀帰ってくるまで一緒にいてあげる。明日学校休みでしょ」
てっきり「子供扱いするな」と拗ねるかと思ったが、意外にも恵は何も言わなかった。
この家にある布団じゃせまくて仕方ない。足をぎゅうぎゅうに折り畳まないと収まりやしないし、掛け布団の長さだって足りてない。固い畳とぺらぺらの敷布団はきっと今日の疲れを取り除いてはくれないけれど、それでよかった。どうしてだろうか、今日は誰かといたかった。そこに、考えていることの答えがありそうな気がして、でも知りたくないような気もして。
煌々と部屋を照らす白熱灯の下、布団の上で小さく膝を抱えた恵が何かを言いたそうに口をもごもごと動かした。視線は右に左にあちらこちらへと彷徨って、幼さの残る丸い頬はほんのりと染まる。どこか覚えのある感覚。何か言われるな、と考えるまでもなく分かってしまった。
「…いつも、ありがとうございます」
恵の言葉で、ここでやっと、自分が如何にこの少年を見てこなかったのか、如何に都合のいい建前を振りかざしていたのかに気付く。あの日差し伸べた救いの手はこの子達への救いの手ではなかった。エゴに塗れた、自分のための救いの手であったのだと。
緊張か、照れか。意味もなく動かしている両足の親指を見つめながら恵はそう言った。時折ちかちかと揺れる灯りの下、恵の頬が更に染まって続きを口にする。
「五条さんがくると津美紀が嬉しそうな顔するし、美味しいもの食べさせてやれるし、一緒に暮らせるのも、五条さんのおかげだから」
子供の考えていることなど安直で簡単に分かると思っていたのに、五条は何も気付けていなかったのだ。この子が本当に喜んでいたのは五条が持ってくる菓子にではない。五条が持ってきた菓子を見て喜ぶ姉の姿に、表情を綻ばせていたのだ。そんなことに今更やっと気が付くなんて!
「ストップ、待って恵…急にどうしたの、…それも宿題?」
こんなことに気付きたくなかったなぁ、などと考える。最後に続きそうだった恵の言葉を遮って五条は必死に口を動かした。去年津美紀も同じような宿題やってたよね、恵も同じの出たんだ、なんて。
不安定に揺れる白熱灯が今にも死にそうだった。ちかちかと瞬いては最後の足掻きをする。灯りが消えてしまったらこの子達だけじゃ電灯を簡単に取り替えることなんて出来ないのに、五条はそんなことすら知らなかった。
こくりと恵は頷いた。
「俺には、五条さんしか、言える人いないから」
この恵という少年は、姉に似てとても優しい子だった。誰かのために表情を綻ばせて、ありがとうを言えて、信用をすることが出来る。その事に初めて罪悪感が湧いた。
自分はあの呪いとなった子供と同じだ。五条にとっては瞬きの間に殺せる存在でも、あの子にとっての狭い世界の中ではあの子自身は浮き出た存在だった。どんな理由であれ、浮いた存在とは常に孤独だ。隣に並び立つ存在なんていやしない。いても、五条はもう失ってしまった。だから寂しくて、並び立てる可能性のあるものに縋ったのだ。いつの日か恵の持っている血筋は五条を殺すことが出来るようになる。本人にその気がなくても五条はそう出来るようになるまで育て上げるつもりだ。殺されたいわけじゃない。死にたいわけじゃない。ただ、自分と同じくらい死なない存在になってほしいのだ。明日も明後日も1年後も10年後もいてくれる誰かが欲しかった。
まだこの子は知らない。呪術師という生き方は、呪いであれば自分より小さい子供を手にかけることもあるのだと。早くて来年、遅くても再来年。少しづつ身体が完成されていく小学5年から6年の間から、少しずつこの子は自身が歩む将来の現実を知っていく。
ぱち、と最期の悲鳴を上げて白熱灯が亡くなった。部屋の中が途端に暗くなって、五条の情けない顔を覆い隠す。こんなこと、知りたくなかった。暗くなった部屋で五条は再び思う。
「……これは恵が好きだから言うんだよ」
暗闇の中でも五条の好きという言葉に恵の身体が揺れたのが分かった。今日初めて、今更この伏黒恵という1人の少年を見ていて分かってしまった。好きの意味も知らず、好きに種類があることすらよく知らず、こんなどうしようもない大人を好きになってしまったこの子に、自分はどんな顔をすればいい。五条がやってくる度に少しだけきらきらと光る瞳の意味など知らなければよかった。それを愛と呼ぶ以外になんと呼べばいいのか。
「恵、君は優しすぎるから線引きをしろ」
暗闇に慣れ始めた視界の中、布団の上で小さくなっている恵はじっと五条を見つめていた。僅かな月明かりを吸い込んで輝く瞳が、いつか霞んでしまう日が来るのだろうか。寂しさに負けてこんな世界に恵を巻き込んでしまった五条に気がついてか、それとも大人に近付いて今抱いている気持ちが幼さ故の無知であったと気付いてか。それは分からないけれど。
それでも、五条は今日殺した子供のように弱いから言うのだ。少しでも永く、この地獄で彼が生きていけるように。生きたくなくても生きれるように。五条の傍から亡くならないように。
「じゃないと君は、耐えられなくなる」
五条の言葉の意味が分かっているのかいないのか、「…うん」と静かに恵は頷いた。いつか目の前に転がる命の取捨選択を自身の明確な物差しでする。そうしないと優しすぎるこの子は命に耐えられない。こんな人間を愛してしまうような、そんな子には。
「今は分からなくても、いつか意味がわかる日が来るよ。…成長して、今の気持ちを忘れた頃に」
少しだけ震えた声に、五条も恵も気付かなければいい。
この声の震えが、目の前にいる伏黒恵という少年を愛してしまった証拠に他ならないのだから。
寝れるわけがないよな、明るくなってきた窓の外を眺めて思う。遠くの空が白んでいくのを見ながら、昨晩のやり取りを思い出す。夕食を食べながら、初めて何か食べたいものはないのかと聞いた。すると恵は少し悩んだ後にテレビで見たマカロンがいいと言った。恵の口から出るには随分と可愛らしい名前に、何でと聞いてみたら「津美紀が食べたがっていたから」と言ったのだった。
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マドレーヌ:円満な関係
キャンディ:あなたが好き、長く続く関係でいたい
マカロン:あなたは特別な存在
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2023.09.08 23:18:39
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2020年頃に書いたから色々齟齬がある
子供の思っていることなんて手に取る様に分かる。まだ拙い小さい手で、どこか覚束ない足で、真っ直ぐにしか見れない瞳で、物事を知らない頭で、隠し事などできる筈もないのだ。隠そうとしているくせに、何にも隠しきれていない。その幼さを愛らしい嬉しいと思いこそすれ、それ以上のものはなかった。土産を持って行けば片方は素直に飛び跳ねて喜んで、もう片方はまたかとうんざりした顔を向ける。そのくせ瞳の奥には五条が持ってくる美味しいものへの期待が滲んでいる。絵に描いたようにきらきらとする瞳を、好意を向けられて喜ばない人間の方が稀だ。
「今日のおやつはマドレーヌ持ってきたよー」
そう言いながら道中で買ってきた紙箱を掲げて見せれば、玄関まで駆け寄ってきた津美紀は頬を紅潮させてやったぁと弾んだ声を上げた。頭がぶつかる玄関を潜り抜けるのもすっかり慣れたもので、狭い三和土に靴を置いて六畳一間へと上がり込む。玄関ドアを開けるだけで全てが見渡せてしまうような小さい部屋は、しかし幼い子供二人には十分な大きさだった。子供だけであれば、の話だが。
室内でも天井が五条の頭を擦るものだから、津美紀にマドレーヌを渡してすぐに畳の上に座り込む。そのまま行儀悪く畳を擦りながら玄関に出迎えもしない恵に近寄れば、丸いちゃぶ台の上には宿題が広げられていた。欠伸が出る程に簡単な算数の宿題だった。ドリルという、五条にはもう存在すら随分と懐かしいそれを広げてせっせと割り算を解いている。
「恵、五条さんが来てくれたんだからあいさつして」
「…どうも」
五条には目もくれずに淡々と計算をこなしていたというのに、津美紀が言えば簡単に振り向く。それが少々癪だと思わないでもないが、まだ丸い手でもって鉛筆を握って単純な割り算に悩んでいる姿は悪くなかった。恵の肩は顎を乗せるには小さすぎて、代わりに頬が触れそうな距離で横からドリルをのぞき込む。
「基礎はちゃんとできてんだ」
ページの下部にぽつんと残されている応用問題の一つで頭を悩ませているようだった。五条から見れば考える必要もないようなものだが、幼い頭では難しいのだろう。問題の横には書いては消したのだろう計算の跡があった。すっかり視線をドリルに戻した恵は返事を返さない。けれどそれもいつものことで、どうせ五条が持ってきた菓子を見ればあっさりと頬が綻ぶのを知っている。
「解き方のコツだけ教えてあげるからさ、これ終わったら晩御飯食べようよ」
マドレーヌ買ってきたんだよ。再度そう言うと恵はドリルばかりを見つめていた目を持ち上げて台所へと向けた。台所の空いたスペースに五条が持ってきた箱を置いている津美紀を見て、ちょっとだけ目尻が緩む。つんけんした表情から、ほんの少しだけ丸い表情になる。子供は菓子が好きだ。
その表情を答えとして恵が握っていた鉛筆を取り上げる。あ、と小さく零したのを無視して何度も消した跡のある場所にヒントとなる数式を書いていく。横でいらないだとか余計な事すんなとか聞こえた気がしたが、空腹には変え難い。それに口では文句を言いながらも鉛筆を持つ手を邪魔することはしないのだから分かりやすい。2年ほどの付き合いでもこの子供が決して馬鹿ではないことは知っている。もうこれで答えを導き出せる筈だ。
「もう分かるでしょ?津美紀とご飯の支度してくるから早く終わらせて机の上片付けてね」
鉛筆を置いて恵の頭を軽く撫でれば「そんなのなくてもいい」とほんのり染まった頬と尖らせた口で言うが説得力なんてものはありはしない。恵が宿題の続きを始めたのを確認してから台所にいる津美紀の方へと向かう。立ち上がると天井に頭がぶつかるのが難点だが、流石に座ったままじゃ手伝いはできない。中腰になって津美紀の手元を覗き込めば、子供には不釣り合いなほどに大きく見える鍋の中にカレーがいた。部屋に入った時からカレーの匂いがしていたから分かっていたけれど、いざ実物を目にすると途端に空腹感が増す。どうしてカレーは匂いだけでこうも人の食欲を刺激するのだろうか。ルーの中で不器用に切られた不格好な肉と野菜が泳いでいた。
「二人だとあまっちゃうから悟くんがきてくれてよかった」
お玉で中身をかき回したまま津美紀がこちらを振り向いてにこりと笑う。子供二人分をまだ上手く作れない子供らしさで鍋いっぱいに入ったカレーはきっと甘口だ。
余ったカレーをアレンジする方法も、丁度いい量の作り方も教えてくれる大人はいない。きっとそんな大人はいなくてもすぐにどこかで覚えてしまうのだろうけれど、しかしこの部屋のそこかしこに子供だけの拙い生活が転がっていた。
「じゃあいっぱい食べちゃお」
「いつもおせわになってるから、少しでもお返しになるかな」
台所にあるのは年季の入った冷蔵庫とかろうじて電子レンジ。炊飯器なんてものはなかった。だからこの子たちはいつだって安売りされているパックの白米しか食べないし、特売の総菜パンか賞味期限が近い食パンばかりをよく食べる。五条が毎月の生活費を渡しているとはいえ、その金が無限ではないことをもう知っているのだ。言ってくれればいくらだって増やすことはできるけれど、全てのものに限りがあることを知っている子供たちはそんなことを言いやしない。ちゃんと生きる為に必要なことをまだ知る必要のないその幼さで知っている、我儘を知らない子供達だった。
「津美紀は素直でいい子だねー、恵は素直じゃないけど」
ちらりと振り返ればもうドリルを閉じた恵がランドセルを開けているところだった。どうやら無事に宿題は終わったようで、ちゃんと片づけをしているらしい。
「ご飯でもレンチンしようかな」
カレーの美味しそうな匂いから一旦離れて台所の端に積まれたご飯パックを4つ手にする。津美紀と恵で一つずつ、五条で二つだ。小学生に晩御飯をご馳走になるなんて人が聞いたら信じられないと叫びそうだが、その代わりにご飯パックが何個も買えるくらいの有名店のお菓子を持ってきているからいいだろう。
レンジの扉の向こうでご飯パックがぐるぐると回り始める。テレビはあれど電源はつけられていないこの部屋では、温まるまでの数分も長く感じた。温まるのを待つ五条の横で、小さい身体がちょこまかと動き回ってはスプーンやら飲み物やらを用意している。洒落たグラスもないここでは、きっと両親が残していったのであろうプラスチックのコップくらいしかない。飲み物だって、どこのブランドか分からない安売りのペットボトルの麦茶。おかずはきっと昨日買ったのであろう惣菜の残り物。
「はいこれ」
「ありがとう」
1つ温まれば準備をしている子らに手渡して次を。そうやって準備を進めていって夕食が並んだちゃぶ台の上はひどく質素だ。五条の分だけしっかり白米は盛られて、恵と津美紀はパックの片側に寄せただけ。その空いたスペースによそわれた甘口のカレー。残り物であろうスーパーで売られているマカロニサラダと唐揚げ。市販の麦茶。準備の終えたちゃぶ台の前で手を合わせていただきます。五条がいない時もこうして食事を摂っているのだろうなという自然な流れだった。
少し歪ではあるが出会った頃と違って野菜も肉も繋がってないし半生ということもない。味が濃すぎることも薄すぎることも、包丁で指を切って絆創膏を貼るようなことも減った。五条から教えたことなんて殆どないが、少しだけその成長が寂しくも嬉しく感じた。子供の成長は目が回るほど早い。
「美味しく出来てるじゃん」
一口食べてそう言えば、津美紀はよかった!と笑った。
「このにんじんね、恵が切ったの。上手でしょ」
スプーンの上に人参を乗せた津美紀が、切った本人より得意げに言う。他の野菜との違いなんて分からないけれど、あまりにも自慢げな顔をして言うものだから五条は「やるじゃん恵」なんて言って黙々とカレーを頬張る彼の頭を雑に撫でることしかできなかった。されるがままに頭を右に左と揺られている素直じゃない素直さが可愛らしい、だなんて。
学校であったことやいつも行くスーパーでの出来事、五条がいない間に話したいことは随分と積もっていたようで次から次へと話題が飛び出す。それを微笑ましく聞きながら今日はいつもより間が空いてしまったな、なんてことを考えた。
最低でも月に一度はここに来るように決めているけれど、今回は間が空いた。多くて2週間に1度、少なくても3週間に1度は来ていたのだけどここ最近は仕事が立て込んでいた。あちらこちらで3級から2級程度の呪霊が多発したのだ。個々はそれほど怖くはないが、1度祓えば次の日には別の場所でまた現れる。元から人出の足りていないこの業界でそんなことがあれば五条が駆り出されないわけが無い。呪霊があちこちで出るなんてよくある話だが、それにしても頻度が高すぎた。この程度で五条どころか呪術界にも世界にも何かが起きるとは、この騒ぎを起こした張本人は露ほども思っていないだろうに。そうして西へ東へと飛び回って急にぱたりと静かになったのが一昨日のこと。いつもなら手早くさっさと済ます報告書だってこれだけ数が多ければそうもいかない。報告が終わってひと段落したのが昨日のことだった。対して強くもない呪い、祓うのに体力を使うようなことも無い。それでもひと段落した頃にはどっと疲れが押し寄せてきた。この騒ぎの後ろにいるのが誰なのか、分かるからこそ余計に。
「それでね、悟くん」
3分の2ほど食べたところでスプーンを置いた津美紀がじっと五条を見る。少しだけ緊張を乗せた瞳が右に左にと1度さまよって、頬はちょっと赤い。何か言われるな、考えるまでもなく分かった。おずおずと津美紀が口を開く横で恵は何も気にした風もなくカレーを食べていた。
「恵とご飯がたべれたり一緒に学校行けたり、ここで暮らせてるのが悟くんのおかげだってちゃんと全部わかってるよ。いつも本当にありがとう」
照れくさそうに津美紀がはにかむ。
なんと言葉を返したらいいのだろう。2人が暮らせるようにと、2人が本来だったら歩む筈だった未来を曲げたのは自分だ。けれどその代わりに言ってないこともあるし恵の将来はもう決まってしまった。ろくな大人を知らないこの子達は2人で暮らせる環境と資金をくれる五条を悪人だとは思っていない筈だ。将来恵は必ず呪術師というものになることは本人も津美紀も知っている。それが条件で今の生活があることも知っている。でもその人生が如何に血生臭くて、汚れたもので、決して美しいものではないことかは本質的に理解していない。2人が思うほど五条は正しい善人ではなかった。大して思い出もないだろうけど、君たちの父親を殺したのは僕なんだよ。なんて、それを聞いたら2人はどんな顔をするだろう。
「…どしたの、急に」
「身近な人に感謝を伝えてみようっていう課題がでたの。だから悟くんしかいないなって」
ありがとう、もう一度そう言って微笑む。息を飲むほどに大人びたその顔に、上手く笑顔を返せた自信はない。大してありもしない良心が、今更になって少しだけ傷んだ。
―――――――
呪いでありながら随分と人間のようだった。
どんな経緯で生まれた呪いかなんて興味が無いから細かいことは忘れてしまったが、人の中に潜り込んで身を潜めているうちに人間らしさが生まれて普通の人間のように生活していたのだという。普通に朝起きて幼稚園に行って食事を摂りまた眠る。人に寄生する呪いもいるにはいるが、これは五条でも初めて見るケースだった。きっと同じ幼稚園にいる男の子の腕を折らなければ、わざわざ呪術高専に話はこなかっただろう。それだけ人として生きていた。最初に小さな動物を殺すことから始まって、親は児童相談所や色々なところに助けを求めたが原因は分からず、児童の骨をへし折ったところでやっとこちらに依頼が回ってきた。しかしその頃にはもう元々の少年の自我はすっかり呪霊と同化して消えてしまっていた。大本がその少年であったからか、中身がすり替わっても母親が気付かない程なのだから随分と救いのない奇跡だ。
流石に母親の目の前でこの子を祓うわけにもいかず、かと言って本当の事を伝えたら自分が殺される瞬間までこの呪いを我が子として育てるかもしれない。中身は呪いとはいえ、見た目はただの子供なのだからどう転んでも後味のよくない仕事だ。時折五条への嫌がらせでこういう仕事を押し付けてくるのだから、上の人間には優しい心というものが足りていない。
「ある程度事情は聞いてると思うけど、この子もう中身はただの呪い…なんていうかまぁ悪霊みたいなもん。」
けれど祓わないことには話は終わらない。元の少年はもう死んでいるし、成り代わっている呪いは誰かが祓わねばならない。玄関先で子供と共に出迎えてくれた両親にそう伝えれば信じられない気持ちを半分、悲しみを半分湛えた顔で五条を見た。それはそうだ。ほんの少し前まで我が子だと信じていたのだから。
「何も変わってない、じゃないですか」
母親の声は震えていた。
「外見はね。このまま置いといてもいいけど、そのうちあんたを手に掛けるよ」
「っそ、そんなこと…!」
五条から守る様に膝をついて少年を抱き締める母親と、その2人を更にまとめて抱きしめる父親。どこか最後を惜しむようにも見えるその姿は美しい愛の形だった。少年の中にいる呪いが、怯えた目で五条を見る。今にも母親の腕を握り潰さんばかりの力で縋り付いている姿を見て、つくづく本当によくできた奇跡だと思う。
「最近ちょっと変だなって思う事ってなかった?例えば握り返してくる力がやけに強いな、とか」
「それ、は」
「物を壊す頻度、高くなかった?手を滑らせてとかじゃなくてさ、ただ遊んでるだけなのに不自然な壊れ方してなかった?」
五条の言葉に母親の目が少しずつ歪んで涙が滲む。心当たりがあるのか、五条を写していた瞳は床へと落とされてしまう。子供だけが五条を見ていた。思っていたよりも簡単に母親が折れたあたり、きっと五条が来るまでにも不審に思うことは多かったのだろう。呪いよりも人間に苦労するような事案は多々あるが、今日はそうでないようで胸を撫で下ろす。
「お祓いで、この子を戻すことは出来ないんですか」
涙に濡れた声で父親が言う。元々の少年の魂は完全に呪いの中に取り込まれてしまっていて、もう呪いと少年を切り離すことは出来ない。少年自身の自我もない。既に少年は死んでいるようなものだった。けれど詳細に伝えたところで何も変わらないと、「できないよ」と簡素に言えば抱きしめていた手を離してとうとう母親は声を上げて泣き崩れた。父親も俯いて唇を噛み締めている。流石にこの後殺すのだとは伝えていないが、これが更生したらまた会えるとか、そんな話ではないことを理解しているのだ。
子供は母親の横で逃げるでもなく悲しそうに立ち尽くしていた。
わんわんと泣く母親の姿に心が痛まないと言えば嘘になる。五条が来なければ死ぬまでは幸せに過ごせたのだろうから。けれどそれでも呪いは祓うのが仕事で、心のケアまでしてやれるような万能なヒーローでもない。
「後のことはこれから来る人に聞いて。…ほら、君はおいで」
五条に腕を掴まれても少年の形をした呪いは大人しかった。声を上げるでもなく裸足のまま玄関の外へと出る程に。去り際の母親が伝えた「元気に過ごしてね」に答えるでもなくじっと両親を見つめる姿は、まるで本物の人間のようであった。
「呪いは確保した。僕は離れたところで祓うから、後よろしく」
子供を腕に抱えながら依頼主の家を出たところで補助監督に連絡をする。そう離れたところにはいない筈だからすぐに母親の元へやって来てくれるだろう。
軽く地面を一蹴りして宙へと浮かび上がり、町外れにある森林公園へと向かった。平日の朝10時、人の少ない公園の小さな林の中。今更暴れるとは思わないが念の為に小さな帳を張っておいた。
朝から夜になった林の中で、やっと地面に降ろして子供に問う。単純な好奇心だった。
「なんで同じ組の子に怪我させたの?させなかったらもうちょい長生き出来たかもよ」
五条の問いに暫くの間があってから、どこか拗ねたように口を尖らせて言った。
「ただ遊びたかっただけ。ぼくは遊んでるだけなのに、勝手にけがするんだ」
「近所の野良猫も?」
「なでてあげたら死んじゃった」
「何でか分かる?」
「……みんな、ぼくより弱いから」
話し方まで幼い。呪い自身は人の中に入り込めて喋れる程度には自我も知能もあるというのに。人の負の感情から生まれる呪いが何故こうも正しく人間らしく生きようと変異したのか、五条には興味のないことだ。こんな奇跡がまた起こるとは思えないから、謎を解明することも出来やしない。
「独りぼっちか」
だが、この呪いの首に手をかけた時、とても他人だとは思えなかった。隣に並ぶ誰かが欲しいだけの、可哀想な子供だった。
「今日は飴ちゃんだよ~」
そう言いながら玄関を開けるが、しかし津美紀の出迎えがなかった。もう恵も津美紀も学校から帰ってきている時間の筈なのに、恵はともかく津美紀が出てこないのは珍しいと思いながら「悟さんだよ~」とそのまま上がり込む。
「…あれ、津美紀は」
「林間合宿」
居間にも台所にもどこにも津美紀はおらず、子供一人ではだだっ広く感じる居間で恵だけがちゃぶ台に向かっていた。持ってきた飴を机の上に置きながら恵に聞けばそっけなく教えてくれて、そこでやっと今日が林間合宿の日であったと知る。二か月くらい前に訪れた時に1泊2日の林間合宿があると言っていた気がするが、具体的な日にちまでは覚えていなかった。きっと飴なんてスーパーで安売りされているものしか知らないであろう二人の為に、うざぎやら猫やらの形をした飴細工を持ってきてあげたのだけど。
「そういやそんなこと言ってたっけ。今日から?」
「明日の昼すぎに帰ってくる」
「じゃあ今夜は一人なんだ」
五条の方を見るでもなく恵は黙々と辞典とにらめっこしてはノートに何かを書きこんでいた。よく喋る津美紀がいないとどうにも部屋の中が静かで仕方ない。けれどテレビをつける気にはなれなくて、恵の宿題が終わるまで眺めていることにした。
初めて会った時に比べたら随分と成長したとはいえ、五条に比べたら小さすぎる手。それが辞典の索引をなぞっては捲って、そしてまた何かをノートに書きこんでいく。きっと言葉の意味を調べてこいだとか、意味を調べてから例文を書いてこいだとかそういった類のものだろう。鉛筆が紙の上を滑るかりかりという音がもう随分と懐かしい気がする。大人になると意外と文字を書く機会というのは減るものだ。
「ねぇ、晩御飯どうするの?」
「しょうが焼き」
「えっ、作れんの?」
五条の言葉に眉間に皺を寄せた恵は「自分で作らなきゃ食べられない」と言った。ここで初めて恵と目が合う。ちょっと元気がなさそうな瞳と、きゅっと寄せられた眉間の皺。それからどこかつんと尖った唇。それを見て何か言わなきゃと頭が勝手に思って、そして出てきたのは「僕が作ってあげるよ」だった。
最低でも一か月に一回は顔を見せるようにしているが、最近はその最低限でしかここに来ていなかった。勿論仕事が忙しいのもあったのだけど、ちょっとだけ、雑な扱いをしてしまった。大人なんていなくても子供は子供なりに成長していく。五条がいなくたって宿題は終わるし、いつの間にか一人で生姜焼きだって作れるようになる。それでも、寂しい日は寂しい。姉弟一緒にいても寂しい日はあるのに、一人になったら余計に寂しいに決まっている。五条が来なかったら一人で作って一人で食べることになっていた生姜焼き。きっと味なんてしない。寂しさが味をおかしくさせることを、五条は知っている。
「…忙しいんだろ、無理しなくていい」
「してないよ」
ゆっくりと宿題に落とされた視線は、けれど宿題なんて見てなかった。何を書くでもなくノートの上を彷徨う鉛筆、1ページも捲られない辞典、静かになる部屋。心臓がきゅう、と音を立てるようだった。
嬉しいくせに素直じゃない。寂しいのに、寂しかったと言わない。子供のくせに我儘を知らない。俯いた頭を撫でてやれば、やっぱり恵は大人しくされるがままだった。
「…今日は津美紀いないのに、どうしてそこまでしてくれんの」
ノートの上を彷徨う鉛筆が、不意に意味の無い線を引いた。
「津美紀?津美紀がどうかした?」
「…………俺が、可愛げがないからきたくなくなったのかと、思った、から」
最近は2人に生活費を渡すくらいでしかここに来ることはなかった。忙しいのは勿論、でもちょっと手を抜いたのも本当。来ようと思えば本当はもう少し来れたし、今日の飴だって本当は手抜きだ。都会の喧騒の中でお菓子を選ぶのが今日は少し疲れてしまって、適当に可愛いものでも買ってやれば喜ぶだろうと思って飴細工を買ってきた。一応浅草にまでは行ったけれど、それでも五条からしたら手抜きだ。それをこの子は自分が原因でここに来なくなったのだと思ってすらいた。自分の将来が担保にされていることは分かっていても、捨てられたばかりの子供だ。自分の意思じゃどうにも出来ずに勝手に捨てられる無力さをよく知っている。
「…そんなわけ、ないじゃん」
ここでやっと五条は初めて伏黒恵という少年を見た。五条が思っているよりずっと身体は小さくて、触れた髪は思っているよりずっと柔らかかった。
何故この子に声を掛けたのか。何故面倒な手続きやしがらみその他諸々を片付けてまで引き取ったのか。何故、構ってしまったのか。そんなことはよく考えた。この子の父親からの遺言と血筋がきっかけであったのは確かだけれど、じゃあ何故それ以上に気にかけるようになったのだろう、ということについては考えたことはなかった。ただ引き取って教え子とするだけなら、わざわざ顔を見せる度に菓子を買って行く必要なんてなかったのに。
宿題をしている恵をそこに置いて狭い台所で晩御飯を作ってあげて、食べ終わったら恵が風呂に入っている間に片付けを済ます。買ってきた飴は明日津美紀が帰ってきてから食べるのだという。そうこうしている間にあっという間に夜は更けて、けれど考えていることは何も答えが見つからないままだった。今にも消えそうな白熱灯が五条と恵しかいない部屋を眩しく照らす。
「帰んないの」
「津美紀帰ってくるまで一緒にいてあげる。明日学校休みでしょ」
てっきり「子供扱いするな」と拗ねるかと思ったが、意外にも恵は何も言わなかった。
この家にある布団じゃせまくて仕方ない。足をぎゅうぎゅうに折り畳まないと収まりやしないし、掛け布団の長さだって足りてない。固い畳とぺらぺらの敷布団はきっと今日の疲れを取り除いてはくれないけれど、それでよかった。どうしてだろうか、今日は誰かといたかった。そこに、考えていることの答えがありそうな気がして、でも知りたくないような気もして。
煌々と部屋を照らす白熱灯の下、布団の上で小さく膝を抱えた恵が何かを言いたそうに口をもごもごと動かした。視線は右に左にあちらこちらへと彷徨って、幼さの残る丸い頬はほんのりと染まる。どこか覚えのある感覚。何か言われるな、と考えるまでもなく分かってしまった。
「…いつも、ありがとうございます」
恵の言葉で、ここでやっと、自分が如何にこの少年を見てこなかったのか、如何に都合のいい建前を振りかざしていたのかに気付く。あの日差し伸べた救いの手はこの子達への救いの手ではなかった。エゴに塗れた、自分のための救いの手であったのだと。
緊張か、照れか。意味もなく動かしている両足の親指を見つめながら恵はそう言った。時折ちかちかと揺れる灯りの下、恵の頬が更に染まって続きを口にする。
「五条さんがくると津美紀が嬉しそうな顔するし、美味しいもの食べさせてやれるし、一緒に暮らせるのも、五条さんのおかげだから」
子供の考えていることなど安直で簡単に分かると思っていたのに、五条は何も気付けていなかったのだ。この子が本当に喜んでいたのは五条が持ってくる菓子にではない。五条が持ってきた菓子を見て喜ぶ姉の姿に、表情を綻ばせていたのだ。そんなことに今更やっと気が付くなんて!
「ストップ、待って恵…急にどうしたの、…それも宿題?」
こんなことに気付きたくなかったなぁ、などと考える。最後に続きそうだった恵の言葉を遮って五条は必死に口を動かした。去年津美紀も同じような宿題やってたよね、恵も同じの出たんだ、なんて。
不安定に揺れる白熱灯が今にも死にそうだった。ちかちかと瞬いては最後の足掻きをする。灯りが消えてしまったらこの子達だけじゃ電灯を簡単に取り替えることなんて出来ないのに、五条はそんなことすら知らなかった。
こくりと恵は頷いた。
「俺には、五条さんしか、言える人いないから」
この恵という少年は、姉に似てとても優しい子だった。誰かのために表情を綻ばせて、ありがとうを言えて、信用をすることが出来る。その事に初めて罪悪感が湧いた。
自分はあの呪いとなった子供と同じだ。五条にとっては瞬きの間に殺せる存在でも、あの子にとっての狭い世界の中ではあの子自身は浮き出た存在だった。どんな理由であれ、浮いた存在とは常に孤独だ。隣に並び立つ存在なんていやしない。いても、五条はもう失ってしまった。だから寂しくて、並び立てる可能性のあるものに縋ったのだ。いつの日か恵の持っている血筋は五条を殺すことが出来るようになる。本人にその気がなくても五条はそう出来るようになるまで育て上げるつもりだ。殺されたいわけじゃない。死にたいわけじゃない。ただ、自分と同じくらい死なない存在になってほしいのだ。明日も明後日も1年後も10年後もいてくれる誰かが欲しかった。
まだこの子は知らない。呪術師という生き方は、呪いであれば自分より小さい子供を手にかけることもあるのだと。早くて来年、遅くても再来年。少しづつ身体が完成されていく小学5年から6年の間から、少しずつこの子は自身が歩む将来の現実を知っていく。
ぱち、と最期の悲鳴を上げて白熱灯が亡くなった。部屋の中が途端に暗くなって、五条の情けない顔を覆い隠す。こんなこと、知りたくなかった。暗くなった部屋で五条は再び思う。
「……これは恵が好きだから言うんだよ」
暗闇の中でも五条の好きという言葉に恵の身体が揺れたのが分かった。今日初めて、今更この伏黒恵という1人の少年を見ていて分かってしまった。好きの意味も知らず、好きに種類があることすらよく知らず、こんなどうしようもない大人を好きになってしまったこの子に、自分はどんな顔をすればいい。五条がやってくる度に少しだけきらきらと光る瞳の意味など知らなければよかった。それを愛と呼ぶ以外になんと呼べばいいのか。
「恵、君は優しすぎるから線引きをしろ」
暗闇に慣れ始めた視界の中、布団の上で小さくなっている恵はじっと五条を見つめていた。僅かな月明かりを吸い込んで輝く瞳が、いつか霞んでしまう日が来るのだろうか。寂しさに負けてこんな世界に恵を巻き込んでしまった五条に気がついてか、それとも大人に近付いて今抱いている気持ちが幼さ故の無知であったと気付いてか。それは分からないけれど。
それでも、五条は今日殺した子供のように弱いから言うのだ。少しでも永く、この地獄で彼が生きていけるように。生きたくなくても生きれるように。五条の傍から亡くならないように。
「じゃないと君は、耐えられなくなる」
五条の言葉の意味が分かっているのかいないのか、「…うん」と静かに恵は頷いた。いつか目の前に転がる命の取捨選択を自身の明確な物差しでする。そうしないと優しすぎるこの子は命に耐えられない。こんな人間を愛してしまうような、そんな子には。
「今は分からなくても、いつか意味がわかる日が来るよ。…成長して、今の気持ちを忘れた頃に」
少しだけ震えた声に、五条も恵も気付かなければいい。
この声の震えが、目の前にいる伏黒恵という少年を愛してしまった証拠に他ならないのだから。
寝れるわけがないよな、明るくなってきた窓の外を眺めて思う。遠くの空が白んでいくのを見ながら、昨晩のやり取りを思い出す。夕食を食べながら、初めて何か食べたいものはないのかと聞いた。すると恵は少し悩んだ後にテレビで見たマカロンがいいと言った。恵の口から出るには随分と可愛らしい名前に、何でと聞いてみたら「津美紀が食べたがっていたから」と言ったのだった。
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読後に
マドレーヌ:円満な関係
キャンディ:あなたが好き、長く続く関係でいたい
マカロン:あなたは特別な存在
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