薄明

ごじょうさとる×ふしぐろめぐみ
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2026年1月9日の投稿38件]3ページ目)

今日の罪は海が食べてくれるよ。
柊英です


 たまたま見付けた古びたこの喫茶店は沢山の苺が乗ったタルトが看板メニューらしい。らしい、というのはネットで調べたのでもなく人に聞いたのでもなく、店先に置かれた小さな黒板にそう書かれていたからだ。何色かのチョークで可愛らしく苺のタルトが描かれて、是非食べてください、と。
「わ、本当に沢山のってる」
「壱星と壱流にも見せてやりたいな」
「ね。でもお忍びだから」
「秘密だな」
 その看板に誘われるままに店内に入れば柊羽と英知以外に客はおらず、店主もちらりと2人の顔を見ただけで何も言わなかった。本当に気付いていないのか、それとも何かを察して黙ってくれたのか、それは分からないけれど。窓から少し離れた2人席に腰掛けて苺のタルトとコーヒーを頼めばそう時間も掛からずにテーブルへと運ばれ、先程の会話に繋がる。
 窓の外はどんよりと曇っていて、空は灰色に染まり空気もどこか重さを増しているような気すらする。あいにく英知達の座った席からは見えないけれど、きっと空のすぐ下にある海も同じように彩度を落として重苦しく波打っているのだろう。今日は雨は降らないと朝の予報で言っていたけれど、果たしてどうだろうか。
「…悪いこと、しちゃったかな」
「2人で出掛けたことか?」
 目の前に置かれた1ピースのタルトにフォークを差し込む。艶やかな苺が店内の間接照明に照らされた。
「うん。バレたら2人にも怒られるし、たぶん社長とか偉い人にも怒られちゃうなって」
「バレなければ、それは罪じゃないさ」
 柊羽の言葉に肩を揺らして笑う。確かにその通りでは、あるのだけど。柊羽はいつだって大胆だ。
「悪い大人だ」
「それは英知もだろう」
 甘酸っぱい苺はどこか非現実的な薄暗い今日の中で少しだけ現実味を持っていた。
 どうして仕事の振りをして2人で海に来たのか。どうしてそうしようと思ったのか。それは今朝の出来事の筈なのに車を走らせる中で何処かに置いてきてしまったように思い出せなかった。壱星と壱流が2人揃って泊まり仕事で今日の夜まで帰ってこなくて、偶然英知と柊羽の休みが重なって、テレビから流れるお天気キャスターが本日は一日曇り空でしょうと言っていて、どちらからともなく出掛けようと言い出して。まるで何かに駆られたように記憶ははっきりしない。
 コーヒーを一口飲んだ柊羽がじっと窓の外を見詰めて、それから口を開いた。
「英知は、」
「ん?」
「行かないでくれ」
「…何処に?」
 また口を閉ざした柊羽は窓から視線を外し、英知に倣うようにタルトへとフォークを伸ばした。真っ赤な苺を飲み込んで、美味しいと零す。少しの間。
「…海、とか?」
「なんで疑問形なのさ」
「はは、どうしてだろうな…ただ、今日の海は1人が似合いそうだから、不安になったのかもしれない」
 小さく笑った柊羽がどこか力なく次のひと口をフォークに乗せた。鮮やかなタルトは色彩がはっきりしない今日の中でいやに眩しい。
「行かないよ。1人がお似合いでも、だからって俺1人でどっか行ったりするもんか」
 そうか、と呟いて柊羽はまたタルトを頬張った。窓の外ではどんよりとした雲が悪い大人の英知達を見つめ返していた。

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そこに落ちる幸福について
柊英です


「あれ?柊羽起きてたんだ」
 何の気なしに目が覚めて、何の気なしに水が飲みたいと思って共有ルームへと足を運べば明かりの灯されていない中で柊羽がソファに腰掛けていた。一瞬その人影に止まりかけた心臓は、けれど誰だか分かれば直ぐに穏やかに鼓動を進める。豆電球の小さな明かりひとつもない部屋は月明かりで静かに照らされて、カーテンを透過して薄青く辺りを染めていた。そこに佇む柊羽の姿はあんまりにも絵になっていて、一歩でも彼に近寄ってはいけない気がした。美しいものに近寄る恐れ多さと、美しい美術品を邪魔してしまう恐れ多さ。
「少しだけ、浸りたくてな」
「浸る…?」
「ああ。…月明かりが綺麗な日は、思い出すんだ」
 思い出すって何を、そう聞く前に柊羽は英知を手招いた。こちらにこないと先は教えないと言わんばかりの表情に、ああそういえば和泉柊羽とはそういう男だったと思い出す。月明かりで完成されたそこに足を踏み入れるのははばかられるが、もう英知から喉の渇きは消え失せてしまって佇む理由が柊羽と話すこと以外にはなくなってしまった。
 英知がゆっくりと音を立てないように足を踏み入れたのを見て柊羽が続きを語り始める。
「少し前に曲を作っただろう。花鳥風月シリーズの最後の曲」
「あの月のやつ」
「そう。あれを作ることになった時に、丁度今日みたいな夜が曲のとっかかり、きっかけになってくれたんだ」
 柊羽の隣に腰掛けて考える。月明かりが美しい、今夜みたいな日。柊羽の言葉はぼんやりしていていつの事なのかはさっぱり分からない。けれどそんな夜に何か柊羽を手伝えるようなことをしただろうか。首を捻って考えてみても英知には心当たりはなかった。いつも通りにおはようと言って柊羽を見送って、仕事に向かって、おかえりと柊羽を迎えて、寝る前にみんなで束の間の談笑。けれど柊羽がみんなが寝静まる頃に帰る日は一足先に寝てごめんねの気持ちも込めて置き手紙を1つ置いてから眠る。簡単に振り返ってしまえる程のいつもの日々しか思い当たらず、特別なんてどこにもなかった。
「俺たち、なんかしたっけ?」
「いいや、何も」
「…んん?」
「何も無いことが、きっかけになってくれたんだよ。幸せがなんなのか、教えてくれたんだ」
 幸せなんていうのは本当に些細な当たり前のことだったんだな、柊羽はそう言って細く長く息を吐き出した。
「幸せって」
 青白く照らされたその横顔に、思わず手が伸びた。美しい絵画に自らの指先が伸び、形作る一部となる。そっと髪に触れた英知の指先に、柊羽の瞳が不思議そうに瞬く。
「何気ない毎日だって先に教えてくれたのは、柊羽だよ」
 指の隙間を絶えず流れるように柊羽の髪が滑る。癖のない髪は英知がどんなに掌で指先でかき混ぜようがその流れを乱すことは無い。
「柊羽の歌ってすごいね」
 柊羽が言っていた夜がいつなのか、それは分からないけれどきっと今日みたいな穏やかな夜だったのだろう。みんな寝静まって、どこか遠くの喧騒すら聞こえない穏やかな夜。それを想って歌った歌で柊羽はなんと言っていただろうか。
「…すごくは、ないさ」
「柊羽はすごくないと思ってても、俺はすごいと思ってる」
「敵わないな」
「そういう押しの強さはあると思ってるんで。」
 変わらない青白い光は時間を伝えてはくれないが、今が決して早い時間とは言えない。明日の仕事は何時からだったか、それを思い出すのも億劫だけれど夜更かしはいけない。
 月明かりがひとつ揺れて、止まっているかのようにゆっくりと流れていた柊羽と英知の間にある時間を動かした。
「……寝よっか」
 柊羽の髪を最後にひと撫でしてソファから立ち上がれば、座ったまま見上げた柊羽が目を細めて英知を見つめていた。柊羽は本当に、月明かりがひどく良く似合う。どうしたの、そう言葉が飛び出すより柊羽の言葉の方が早かった。
「俺は幸せ者だな」
「…その言葉、そっくりそのまま柊羽にお返しするよ」
 壱星と壱流だってそう思ってる。そう言えば世界一の幸せ者だと柊羽は眉を下げて笑った。
 
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喜びも悲しみもさぁお手を拝借
柊英です


「いや、これはですね…」
 そう言い訳する声はどんどん小さくなる。目の前のテレビでは女の子達の歓声と可愛らしいポップな音楽が流れている。そしてそれに重なる、まだ声変わりをしていない柊羽の歌。悪いことをしているわけではないのだけど、柊羽も壱星も壱流もいない今のうちにと共有ルームの大きいテレビで見てしまったのがいけなかった。悪いことをしているわけでもないし、柊羽も機嫌を悪くしているわけではない。ただ英知が勝手に居た堪れないのだ。見るならファンの子達のようにペンライトを持って全力で楽しみたいと思っていた。いつも自室で見る時はDVDプレーヤーの大きいとは言えない画面しかなく、それに物足りなく思っていた矢先に共有ルームが英知1人になって。ああ、とテレビから落とした視線を更に落とせば柊羽のメンバーカラーにペンライトがせっせと光っていた。
「ちょっと、元気をもらおうかと…」
「元気」
「元気になる、おまじないと言いますか、なんか元気を貰えまして…」
 今の柊羽に不満があるわけでも一緒にいて疲れるわけでもないのだけど、まだ成長し切っていない身体で目いっぱいステージの上を駆け回って、これからまだ成長と共に伸びるであろう腕を更に必死に伸ばして手を振って、屈託のない笑顔を振りまく柊羽を見ていると元気を貰えるのだ。きっと英知のファンの子達が言う「堀宮くんを見ていると元気になります」という言葉はこういう意味なのだろう。
「なるほど、英知は昔の俺に元気を貰っていたのか」
「いやもう、ほんと、改めて言われると恥ずかしいというか、居た堪れないというか」
「居た堪れないのは俺の方な気もするが」
「その通りですね…」
 画面の向こうで幼い柊羽が大好きです!と叫んでいた。この時の笑顔がまた少しの照れを乗せていて可愛いのだ。もう何度見たか分からない映像が脳裏に浮かぶ。
「っふふ、」
 ふと隣から笑い声が聞こえて顔を上げて見れば柊羽がもう我慢出来ないというように肩を震わせていた。
「俺は気にしていないからそんな顔をしないでくれ。恥ずかしい映像でもないし、そもそも俺が英知を元気づけられているなら良いことじゃないか」
「そういうもの…?」
「そういうものだ。…ああでも」
 柊羽の目が緩く細められて、ペンライトを強く握る英知の手元を見た。その視線が何を意味するのか、それを考える前にQUELLの和泉柊羽とは違う色をしたペンライトが取り上げられてしまう。それはあっさりと電源を落とされると柊羽の背中へと隠されてしまう。横目で見たテレビの向こうでは柊羽だけではなく他のメンバーもステージへと上がっていて、英知が好きな歌を歌おうとしていた。たくさんのメンバーがいる中で柊羽が与えられたソロパート。そのフレーズが英知は好きだった。
「握るのならペンライトじゃなく、俺の手にしてほしいな」
 そんな大事そうに抱えられると少し妬けてしまう、そう柊羽が告げて英知の手を取った時。英知の耳に柊羽の今より高い歌声が届いた。疲れた時も悲しい時も手を繋いで分け合えばいい。
「…俺の心を読まないでくれます?」
「長い付き合いだから分かるだけさ。少しは俺にも分けてくれていいんだよ、英知」
 敵わないと柊羽の手を握り返せば画面の向こうではタイムスリップした柊羽が眩しい笑顔で英知に手を差し伸べていた。

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幾年昔の自分へ
柊英です


「英知」
 名前を呼ばれて振り向けば、お得用コーナーの前で柊羽が立ち止まっていた。眼鏡にマスクをしていたって柊羽にはミスマッチなそこには、英知が長いこと愛用している薬用リップが売られていた。なるほど、柊羽が声を掛けてきたのはそういうことだったのだ。しかし安物のリップを持っている柊羽はやっぱり似合ってないけれど。
「俺が愛用してるやつ!ありがとう、よく分かったね?」
 ああそういえば今使っているので最後だったなと思い出して、柊羽が差し出してくれたそれを受け取って買い物かごへと落とす。
「いつも持ち歩いているだろう。見覚えがあったんだ」
 ADの時より収入は増えた筈なのだからもっと良いものを使ってもいいのだけど、変えるタイミングもないまま今でも同じものを使っている。3本セットのお得用でたまに特売品として殊更安く売られているそれは、大昔にとりあえず荒れた唇をどうにかするために買った日から変わらないデザインでそこにあった。効果がどうとかそういうことは考えていないのだけど、昔と変わらないそれを使っていると、今がどんなに昔の自分が想像もしなかった未来なのだとしても、夢じゃない気がする。今がしっかり過去と繋がった地続きの未来なのだと思える気がするのだ。1つでも変わらないものが身近にある、それはちょっとした安心感になる。
「そっかぁ、なんか嬉しいな」
「嬉しい?」
「なんか俺が使ってるものを柊羽が知っててくれてたのが嬉しい、というか…なんだろ、俺が好きなものを柊羽が知っててくれて嬉しい、みたいな感じ」
 眼鏡の奥で柊羽がぱちりと瞬きをして、それから擽ったそうに笑う。
「前に英知が壱星と壱流に言っていただろう。2人の好きなものを探すのは宝探しみたいで楽しい、と。俺もそれと同じように英知が好きなものや愛してるものを探すのが楽しいんだ」
 英知が愛してるものを、俺も一緒に愛せたらいいなと思うんだよ。そう言って柊羽は英知の手からかごを奪うと、言葉を返せずにいる英知をその場に置いてレジへと歩き出してしまった。そんなの俺だって!そう叫び出しそうになるのを堪えてから柊羽の後を追えば、今にも会計が始まりそうなかごの中には柊羽が見つけてくれた英知が愛用するお得用リップと、英知が見つけた柊羽が気に入っているハンドクリームが転がっていた。
 
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幸福論
柊英です


「幸せって、なんだろうねぇ」
 真っ青な空には大きな白い雲が描かれていた。9月の初め、夏の終わりのはずのこの時期はしかしまだ夏を色濃く残していた。例年になく暑かったその温度は、9月になってもまだそこにあった。まだうっすらと背中に汗が滲む。雲を流す風は同じ様に寮のベランダに佇む英知と柊羽の髪を撫でていく。
「どうしたんだ、いきなり」
「いやー、ちょっと物思いに耽りたくなっちゃって」
 壱星と壱流に追い出される形でベランダにやってきたものだから、手持ち無沙汰に手すりを撫でることしかできない。耳を澄ませば閉じられたガラス戸の向こうから双子の声が聞こえる。
 英知の隣で同じように手持ち無沙汰にしていた柊羽が幸せか、と呟いた。
 ぬるい風に当たりながら、隣にいる柊羽の気配とガラス戸の向こうにいる双子の賑やかな声とどこか遠くから聞こえる都内の喧騒に耳を傾ける。それはどこか柊羽が英知の為に作ってくれた歌のようだった。目を閉じればそれはより一層英知の中で響き渡る。柊羽が水を与え続けた花達は、今こうして美しく花を咲かせて小さな花束達になったのだ。
「きっと、幸せというのは今のことを言うんだろうな」
 ゆっくりと柊羽の右肩が英知の左肩へと体重をかける。柊羽の重みを感じながらそっと目を開ければ空にはやはり大きな白い雲が広がっていた。からりと晴れた今夜はきっと月が良く見える。双子はさぞかし喜ぶだろう。
 このまま時が止まればいいのに。今この瞬間で全ての時間を止めたいわけではなく、この時間がいつまでも続けばと、そう願う。明日も明後日もその先もこうして穏やかな時間が続けばいいと願うのだ。そう簡単に上手くはいかないのだろうけれど、それらを乗り越えた先でひとつの笑い話として語れたら、それはとても素敵なことだ。
幸せとは、今この時間を指すのだ。

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情けない話は花火の向こうへ
柊英です


 誰かと花火を見るのは随分と久しぶりだった。見ることはあってもテレビの画面越しや、仕事の撮影で見ることばかりで親しい人と見るなんてことはなかった。だから少しだけ浮かれているし、我儘にだってなる。
 地面が揺れるような音と、それから少し遅れて小さな光が夜空へと上がっていく。柊羽と英知がいる場所から少し離れた所で行われている夏祭りの喧騒が、次の瞬間轟いた光の弾ける音でかき消される。ぱっと広がり形を作る光に、英知が小さく声を上げた。きらきらと光が夜空へ溶け込むように消えていく。たった一瞬の美しさに、英知の瞳が瞬く。大きい瞳は簡単に空に散る光を集めてきらきらと瞬いて、そこに星を住まわしていく。それに僅かばかり嫉妬してしまう自分は、さぞかし狭量な男なのだろう。気がつけば柊羽の視線は打ち上げられる花火ではなく、それを見つめる英知にだけ向けられていた。
「…柊羽」
「どうした」
「そんなに見られたら気になりますって」
 淡々と打ち上げられていた花火が、一瞬止まる。再び少しずつ聞こえてきた祭りの喧騒に、英知の視線がやっとこちらへ向く。
「すまない。少し妬けてしまって」
 英知が丸い目をいくつか瞬きさせて、それから首を傾げる。その後に続いた、何に?という言葉は柊羽が答える前に再び始まった轟きに飲み込まれてしまった。きっとこれが最後の打ち上げ花火なのだろう。先程とは打って変わって一斉に絶え間なく地面が揺れては轟音に続いて夜空に光の点が登っていく。空が明るくなって、いくつもの光が一瞬の輝きでもって夜空を彩る。ああ、きっとこれは、神様からかっこ悪い嫉妬なんてしているなというお告げなのだろう。
 一斉に始まった花火は、そう長くは続かず最後に1番大きなものを打ち上げて終わった。雲のように流れる火薬の煙が夏の終わりを知らせるようだった。
「柊羽、さっきの妬けたって?」
「…なんでもない。忘れてくれ」

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いま、愛の話をしよう
柊英です


 ぱちりとキッチンの電気を消して。揃いのマグカップにほんの少しはちみつを垂らしたホットミルク。それを柊羽に渡しながら向かいに腰掛ければありがとうと返される。英知と柊羽しかいない共有ルームはダイニングテーブルがある場所だけ明かりを灯されて薄暗い。とっくに壱星と壱流ははしゃぎ疲れて眠ってしまったから、余計に明かりの下にあるテーブルは2人のために切り取られたようだった。
 英知が寝込んだことでずれ込んだSolidSとの打ち上げが行われたのは熱が下がってから数日後の今日だった。どこか特別な場所に行くでもなく、お互いに食べ物やら酒やらを持ち寄ってSolidSの共有ルームにおじゃましての打ち上げ。随分とはしゃいでしまったからきっと壱星も壱流も起き出してくることはないだろう。
「疲れてるのにごめんね?」
「構わないさ。さっきまであれだけ騒いだんだ、まだ眠れそうにない」
「そっか」
 暖かいマグを両手で包み込んだまま少し視線を彷徨わせる。柊羽のことだから英知が何を伝えたくてこんな時間にホットミルクを入れたのか分かっているに違いないのだ。柊羽は英知が泣いた理由を察しているのだから。だからといって柊羽に促されるのを待っていてはいけないのだけど。1口含んだホットミルクは優しい甘さで英知の背中を押す。
 きっと気付いてると思うけどさぁ、そう前置きを1つ。
「QUELLになれて、本当によかったって思ってるよ」
 あれから数日経った。気が付けば今まで通りの日常が戻ってこようとしていて、英知も柊羽もそれこそ壱星に壱流も仕事へと再び駆け出した。それでも毎晩眠るために瞼を下ろすと真っ暗な視界いっぱいに美しいイエローグリーンのサインライトの灯りが英知を照らすのだ。360度、全ての視界が英知の瞳の色で埋め尽くされたあの空間が忘れられない。あの時間が、瞬間が忘れられない。柊羽が英知のために作った宝物のような歌を、壱星と壱流が褒めてくれた英知の歌声で、あの場で歌えたことはきっとどんな言葉でも表せない幸せだ。きっかけなんて今は小さなことで、英知は心の底からこの3人と一緒に同じ場所に立てて良かったと思うのだ。
「どんなにありがとうって言っても言い足りないくらい、本当にQUELLにしてくれてありがとうって思ってるんだ」
 あの日涙に溺れてしまった言葉をゆっくりと紡いでいけば、目の前の柊羽が驚いたように目を開いて英知を見た。ユニットに入ることになったきっかけは壱流だったけれど、最初にマネージャーとして誘ったときはあんなに強引だったというのに。この寮に越してきた時に似たようなことを言った時だってこんな顔はしなかったのに、目の前の柊羽はあんまりにも驚いた顔をしていて。
 改まって感謝を伝えることは少し気恥しい。けれど大事なことだ。ホットミルクをもう1口飲んで、白熱灯に照らされる柊羽の綺麗な瞳を見つめる。一体どれだけこの奇跡に感謝すればいいのか分かりやしない。
「柊羽に、イッセーにイッチーに出会えて4人でいられて本当に幸せだよ、俺。…あの時泣いちゃったのはそういうこと。ありがとうって」
 最後にそう付け加えれば柊羽は視線をテーブルへと落とした。頬に長い睫毛の影が落ちる。
「……ありがとう、」
 穏やかに微笑みながらそう言った柊羽の唇は少しだけ震えていた。それから瞬きと同時に音もなく静かに涙が落ちて、柊羽のマグカップへと落ちる。それは途切れることなくいくつもいくつも静かに落ちていく。どうしたの、なんて声を掛けられやしなかった。柊羽の言葉を待たなくてはいけない気がしたのだ。
 やがて情けないな、とそう言って柊羽がそっと手のひらで目元を隠してしまう。
「情けなくなんてないよ」
「いや、情けないさ。…やっと、安心したんだからな」
「…安心?」
 柊羽の手の隙間からはらりと涙が零れていく。そんなんじゃあせっかくのはちみつを入れたホットミルクが塩辛くなってしまう。そんなことを思った。
「英知から、QUELLでよかったと聞いて、安心したんだ」
「…そんなの、当たり前じゃない」
「それでも、英知は優しいから不安だったんだよ」
 きっかけがきっかけだろう、そう言う柊羽の声は随分と小さかった。
「いくら俺が優しくても、優しさだけで大好きな仕事を辞めてまで柊羽についてこないよ」
 他人への優しさだけで天職だとまで思っていた仕事を辞めたりなんかしない。柊羽でなければどんなに魅力的な仕事だろうと英知はADという仕事を選んでいたに違いなかった。けれどそれは今日までの英知がどんなに言い聞かせたって完璧には納得しなかったのだろう。だからこそ、寮に来たばかりに同じような事を言った時、柊羽はこんな顔をしなかった。頭じゃ分かっていても、心ばっかりはそう上手くいかない。理屈や理論じゃどうにもならないのだ。
 目元を隠している柊羽の手を取る。零れすぎた涙でしっとりと濡れているのも構わずその手を握る。柊羽の涙がその不安をホットミルクに落としてくれているように、あの日英知が流した涙が柊羽の中の不安を少しずつ溶かしていたのだ。言葉だけじゃあ足りないものを、今こうしてお互いの涙が教えてくれる。
「柊羽だから、柊羽じゃなきゃ、俺はついてこなかったよ。俺の為に仕事を辞めてくれってプロポーズしたんだよ?もっと自信持ってよ、リーダー」
「…英知には敵わないな」
 いくつも落ちていた涙は気が付けば止まっていて、それは柊羽の中で抱えていたものを溶かし切った証明だった。それに安堵して手を離そうとした英知の手をそっと握り返した柊羽は、赤くなった目尻で少し眉を下げて笑った。今度こそどうしたのと聞けばすまないと1つ謝罪の言葉。
「英知の優しさに、自惚れてしまいそうだ」
「……そんなの、」
 この時零れ落ちた言葉は脳を通さずそのまま心の声が溢れたもので、言ってからその意味に気付く。その意味が分からないほどもう英知は子供ではなかったのだけど、その言葉の意味を理解したまま言葉を重ねる。すっかりホットミルクのことは頭から抜けていた。暗闇から切り取られたダイニングテーブルの上でゆっくりと温度を下げていくマグカップの中身とは反対に、お互いの手のひらは温度を上げていく。
「俺だって、一緒だよ」

____

 
 スタジオの中を駆け回る数多のスタッフの中で頭1つ飛び出た長身、駆け回る度に揺れる茶髪はよく目に入った。誰かに呼ばれる度に明るく返事を返してはそちらに向かってまた駆けて行くその姿を、忙しそうだとどこか他人事に考える自分と、そんな彼のことを随分と楽しそうだと思って見ている自分がいた。あれだけあちこちに奔走していては疲れるだろうに、額にうっすら汗を滲ませていたって疲れた顔1つしない。それどころか彼が駆けつけた先はどこか陽が射したように明るくなった気さえするのだ。その英知の姿に柊羽はフィクションの中でしか見たことの無い一目惚れというものをしたのだと、今なら言える。
 いつだかに柊羽が所属していたユニットが出演した音楽番組。それに同じく出演していた海外の女性歌手。力強いながらも美しく繊細な歌声は柊羽も随分と気に入っていて、移動車の中でもよく聴いていた。その彼女を舞台袖からじっと見つめて聴き入っている横顔に、今がチャンスなのだと思ったのをよく覚えている。ステージを照らす照明の強い灯りが、舞台袖にいる英知の瞳にも反射して瞬いていた。それにまたひとつ恋をしたのだけど、きっと英知は知らない。「とても、いい歌ですよね」柊羽がそう声を掛けた時、振り向いた英知はひどく驚いた顔をしていた。まさかあの和泉柊羽が、そう顔に書いてあるのではないかと思うほどに。その時初めて近くで、正面から英知の顔を見てそこでやっと彼はとても美しいイエローグリーンの瞳をしているのだと知ったのだ。
 あの時、彼女が歌っていたのは日本語版のタイトルで、

____

「いま、愛の話をしよう」
 英知の言葉に驚いたように柊羽の手のひらが1つ震えた。今夜は随分と柊羽を驚かせてばかりだ。もしかしたら瞳がぽろりと落ちてしまうかもしれない、その時はちゃんと拾ってあげないと。そんなことを考える。
「俺さぁ、この歌すごく好きなんだ。それに何かと柊羽と縁もあってね。初めて柊羽が声を掛けてくれた時に1番近くで流れてたし、俺が柊羽のことを好きになった時にも1番近くで流れてた」
 びっくりしすぎだよ、柊羽の顔を見てそう笑う。
 柊羽に初めて声をかけられた時、まさかあの和泉柊羽が、そう思ったのをよく覚えている。ただのスタッフに声を掛けてくる人には思わなかったし、自分が声を掛けられるとも思っていなかったのだ。あんまりにもびっくりしたものだからあの時の自分が柊羽になんて言葉を返したのかも覚えていない。ただ、初めて近くで見た柊羽の瞳はあんまりにも綺麗で澄んだ水のようだと思ったのはやけに覚えていた。
「いつから、」
「ん?」
「いつから、好きになってくれたんだ」
 英知の手を握る柊羽の手に僅かに力が込められる。ああ今夜はなんて珍しい柊羽の姿ばかり見る日だろうか。英知が少しの緊張と気恥しさと共に昔話をしているように、彼も同じように少しの緊張と気恥しさを抱えながら英知の話を聞いているのだ。
「柊羽が初めて約束に遅刻した日」
 親しくなって半年程経った日の冬だった。柊羽が予約してくれていた英知だけじゃとても行かないようなレストラン。そこに向かう道すがらに届いた、仕事が押してしまって遅れるから先に入っていてほしいというメッセージ。この時の英知はまだあの和泉柊羽と自分が友人だということにまだ少し気持ちがついてこず、どこかふわふわとした気持ちでいた。ただのスタッフでしかない自分が彼と友人であるということに対する優越感のようなものを感じながらも、同時に気まぐれで声を掛けられただけの、その場だけの1人なのだろうという気持ちを抱えながら。スタジオで自分を見つけては何かと声を掛けてくれて、時折メッセージなんかも寄越してくれて、時間が合えば食事にも誘ってくれる。そこに特別を見出すだけの自惚れは持ち合わせていなかった。けれど初めて待ち合わせに遅れてやってきた柊羽の姿に英知の中で気持ちが変わったのだ。
「あの時、すっごい急いで来てくれたでしょ。冬なのに汗かくくらい必死になって、急いで来てくれてさ。…だからちょっとだけ、俺って柊羽にとってそれだけの人なのかなって、思っちゃった」
 肩で息をして、遅れたことを詫びる言葉すら途切れ途切れで。別にそんなに急がなくたって英知はどこかに行ったりしないのに、その必死な姿がどうしようもなく愛おしいと思ってしまった。あの和泉柊羽が、ただのスタッフの1人でしかない自分のためにこうも必死になってくれたことがどうしようもなく嬉しいと思ってしまったのだ。あの時、英知は自分がこの男の特別であったらどんなに嬉しいことかと思い、笑われたっていいから自分は彼の特別なのかもしれないなんて自惚れを感じたのだ。あの時に店内で流れていたのは偶然にも柊羽が初めて声を掛けた時と同じ、彼女の歌だった。
 彼女は去年歌手を引退した。結婚を期に引退した彼女はインタビュアーにどうして引退するのかと聞かれてこう答えた。私はたった一人の愛を語る相手を見つけたの、と。
「ずっと特別だったに決まってるじゃないか」
「今なら分かるけどね。流石に当時の俺じゃそうは思えなかったよ」
 柊羽の手に込められていた力が緩められて、優しく指を絡めるように繋がれる。それに応えるように英知からも指を絡ませる。気が付けばお互いの熱を分け合った手のひらは溶け合うように同じ温度になっていた。
 かたや誰もが知っている有名人、かたやただのAD。生きている場所すら違いすぎて自分が柊羽の特別だったらなんて思い込むことは出来ても信じることは出来やしなかった。これもきっと、今日までの柊羽がどんなに英知に言い聞かせたって納得なんてしやしなかったのだろう。今この瞬間、積み重ねてきた時間があるからこそ、信じることが出来るのだ。
「今は、ちゃんと英知に伝わっているか?」
「そりゃもう、勘弁してってくらいに」
「それはよかった。頑張った甲斐があったな」
 美しい水色の瞳が英知を映していた。ようやっと柊羽の瞳に込められた意味を素直に受け止めて受け入れることができる。きっと今の自分も同じように堪えきれない想いが乗っかっているのだろう。
「そういえば話が脱線しちゃったね。…ねぇ、俺も柊羽の気持ちに自惚れていいかな」
 柊羽が肩を揺らして当たり前だろうと笑う。それに良かったと笑えば繋いでいない方の手がそっと英知に伸びる。頬を滑る柊羽の手のひらに目を細めれば頭の片隅に彼女の歌が流れ出す。きっと柊羽の頭でも同じように彼女の歌が流れているのだろう。マグカップの中のホットミルクはもうとっくに冷め切っていて、けれど今の英知には丁度いいに違いない。
 いま、愛の話をしよう。そうして愛を語り合ったら最後はそっとキスをしよう。彼女は最後にそう歌っていた。

 
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星の原
柊英です

星の原

 ユニットとしては先輩である大がステージの上で歌っている。その歌声に聞き惚れながらも足が竦む。この歌が終わったら入れ替わるようにしてステージへと向かわねばならない。果たして自分は彼のように堂々とステージに立ち歌うことができるだろうか。舞台袖に聴こえる歌声に、マイクを持つ手が震えた。
 やがて曲が終わり、ステージに歓声が響く。
「…よし」
 それを聴いて、竦む足を叱咤して壇上へと続く階段を上がっていく。英知と入れ違うように僅かに額に汗を滲ませた大が降りてきた。次の曲までそう時間もない中で、大が英知の顔を見て小さく笑った。
「大丈夫。行ってみたら、ステージって案外怖くない」
 

 曲が終わり、ふと視界を持ち上げた時、きらきらと世界が瞬いていた。イエローグリーンのペンライトが夜闇に散りばめられた星々の様で、宝石のようで、その美しさに息を飲む。今、この光は英知の為に光り輝き英知を讃えている。大袈裟な仕草で頭を下げて、ありがとうございましたと言った声はきっと震えていた。広い会場からちらほらとざわめく声が聞こえたから。
 柊羽が作ってくれた、英知の為の歌。QUELLというこの場所を家族のように想っている、それを美しく形にしてくれた歌だ。みんなの様に上手く歌えた自信なんてない。声は裏返ってしまったしリズムだって崩れてたに違いない。それでも歌っていたあの瞬間は誰よりも1番楽しい幸せな時間であったのは確かだ。壇上に立ちイントロが流れてからの記憶は緊張も相まってどこかふわふわとしていてはっきりしないけれど、それだけは分かる。柊羽が作った、このQUELLという家族を想う、英知のための歌。ああ、と大きく息を吸う。もう一度頭を上げた時に未だに広がっていたイエローグリーンの世界が滲む。もう一度頭を下げて舞台袖に下がる足取りだって少し震えていた。
 次にソロを歌う壱流が英知と入れ替わるようにステージへと消えていく。その背中を見送る余裕すらなかった。英知の背後でわぁっと歓声が上がる。やがて流れ始めるイントロ、そこに重なる壱流の歌声。
「英知」
 優しい声が壱流の伸びやかな歌声の合間を縫って英知の耳へと届く。どこか呆然とした頭で見遣ればそこには柊羽が立っていた。きっと、英知のステージを見ていたのだ。視界がどうしようもなく滲んで、息を吸い込む、それすら震えてしまった。きらきらと世界が瞬いていた。イエローグリーンの美しい星々が英知を讃えていた。堀宮英知という人間を、確かに受け入れ認め、見つめていた。QUELLの堀宮英知として、柊羽や壱星や壱流からではない数多の人からやっと認めてもらったような気すらした。なんて美しい光景だっただろう、QUELLの堀宮英知だけが見ることの許された星の原は。
 柊羽、と名前を呼ぶ声は形にならなかった。壱流のソロが終わったら次はSolidSが歌う。その僅かな時間に少しくらい泣いてもいいだろうか。本当は泣いている場合なんかじゃあないのだけど、それでもどうしようもなかった。覚束ない足取りで両手を広げた柊羽の腕の中に収まれば壱流の歌声がすっと遠のく。
「英知、英知。本当にお疲れ様。本当に素晴らしいステージだったよ」
 何度も自分の名前を呼ぶ柊羽の声は酷く優しい。ああ、QUELLになれて良かったとこんなにも心の底から思っているのに声になんてなりやしない。ただただ柊羽を抱きしめ返す腕に力だけが込められる。この腕で柊羽にたくさんの感謝が伝わっていれば、いいのだけど。
 瞼の裏で、世界で1番美しい星の原が広がっていた。英知だけが見ることの許された、英知だけの美しさだ。

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